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<2020年2月〜9月南アフリカ・ドバイ滞在記>

2020年2月23日(日)

 2018年12月24日に音楽劇『ダディとマザーの軽井沢物語』を公演し、メディアからも「今の時代に必要なメッセージ性ある舞台」と評価をいただいた。多くの皆様から再演を望む声も寄せられ、是非内外各地でバージョンアップし再演をと考えていたが、予定はしても中々予定通りには進まないもの。2020年に入り、世界を襲った新型コロナウイルスの影響もあり自粛を余儀なくさせられている。

 そこで、リハーサルだけで、公演活動が出来ないなら、社会活動をしようと情報収集していたところ、丁度、或る日本企業から「南アフリカにはまだマスクが大量に在庫があり、それを日本で必要としているところがある。在庫確認から配送まで現地で立ち会ってきてほしい。」との話が舞い込む。

 南アフリカは初めてだし、ジョンレノンも晩年ケープタウン(Cape Town)に行ったという運命の巡り合わせを感じ、日本で企画していたミュージカルもコロナで延期になったことから、僕自身はCOVID-19への人道支援活動をまず今はすべき時と、事前に日本側弁護士、関係者と打ち合わせし、急遽、成田空港23時発のエミレーツ航空EK319便でドバイ経由南アフリカ共和国ケープタウンに向かった。

 人生いつどこで分岐点に当たるかは誰にも分からない。しかし、自分で道は切り拓くもの、羅針盤の指す方に行くのみだ!

 機窓を流れる景色を見ながら、今日ここまでの道のりと、誰と会って、別れて、その結果ここに至ったのか、数々の失敗と挫折があって、それが無駄ではなかったと初めて気付いた。僕にとっては“第二の人生(セカンドライフ)”の旅立ち。

 機内で、ワインを飲みながら、ビートルズの曲をランダムに聴いていたら、ジョンの言葉が去来し、ケープタウンまで暫しの眠りについた。

”What kind of, you can grow up and succeed. When keeping telling one self so many times, it can succeed by all means.” by John Lennon
「どんな人だって成功できる!自分にそう何度も言い聞かせ続けていれば、絶対に成功できるのです。」ジョンレノン

-Start Up 2nd Life!-

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2020年2月24日(月)

 途中、経由地アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ(Dubai)で降機し、約3時間乗り継ぎの合間、待合スペースでメールなどをし、日本の新聞を見たりする。小腹も減ったので成田駅で買ったアンパンを頬張る。本当は、ドバイで市内をひとまわり1、2時間したいところだが、免税店を見て、空気だけ吸い、ケープタウン行きエミレーツEK770便に向け乗り換え、いざアフリカへ。

 初めての南半球、アフリカ上空のフライトで、異次元の空間体験。砂漠を過ぎると、サバンナあり、密林あり、山に海に都市にと、見る景色の変化がやはり全然違う感じ。

 ケープタウン空港に着くと日本はまだ真冬だったが、ケープは真夏の暑さ。人々は半袖に、マスクなし。僕だけ、真冬のダウンジャケットにマスクで一気に汗を掻く。入国時の税関審査前に、「こちらへどうぞ」と手招きで呼ばれる。アジアからの人は別室にということで、隔離される。コロナの症状がないか、検温と問診表への記入を言われる。質問項目は、14日以内に武漢にいたか、発熱、咳は出ないか、呼吸が苦しくないか…などで、よく見ると、対象が中国人もしくは中国に最近滞在した人となっており、僕が中国人かと思われたのだろう。

 空港では迎えはなく、右も左も何もわからない状態でタクシーに乗り、ケープタウン・ヒルトンホテルに向かう。途中市内の各所に、早くも“STAY HOME”のたれ幕が。歩道を見ると、マスクをしてる人は少ない、というかまだ末端まで行き渡ってないのか。

 ホテルにチェックインし、部屋に入るとケープタウンを象徴する「テーブルマウンテン(Table Mountain)」が目の前に。ジョンレノンも晩年の1980年ここを訪れ、この山を見ていたのかと感慨にふける。

 こちらに滞在している海事弁護士の先生と合流し、最も安全な空港のレストランに行くが、「絶対に歩道や外に出て携帯電話で話したり、写真を撮ったりしないように」「タクシーや車の窓を開け手を出すと、手を切り取って時計や携帯を持っていくというケースもあり、物売りが寄って来ても絶対窓は開けないこと」とまず注意を受ける。相当危険ですよと。

 1498年、ポルトガルの探検家バスコダガマ(Vasco Da Gama)がインド洋航路を発見したアフリカ大陸最南端近くの「希望峰(Cape of Hope)」があるケープタウンには、1980年6月、ジョンレノンも晩年訪れたことがある。この空港の同じ出入国ゲートをジョンは通った訳で、空港のレストランで食事をしながら、「先生、ジョンレノンも40年前ここに来たんですよ」と話すと、「何のために来たんでしょうね?1980年ですか…、マンデラさんに面会に来たのかな?」という一言がヒントになった。さすが弁護士先生は鋭い。

 ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela、1918.7.18-2013.12.5)は、1964年から政治犯として終身刑の判決を受け1992年まで27年間監獄にいたが、1980年当時多くの文化人がマンデラの釈放運動、アパルトヘイト解消運動に動いていた。もしかしたら、ジョンは人種差別や不平等とアメリカでも闘ってきたので、1980年夏、ケープまで人権運動で来たのではないか?

 その後、マンデラは1990年釈放後、ケープタウン市役所で演説し10万人が集まったという。そして、国内の部族間を苦労してまとめアパルトヘイトの解消を成し遂げた英雄として1993年ノーベル平和賞を受賞し、1994年から99年まで大統領を務めた。空港内にはマンデラ元大統領の肖像画や写真、独房などがあり、感動的な彼の言葉がある。

“When a man has done what he considers to be his duty to his people and his country, he can rest in peace” by Nelson Mandela
「人が国民と国に対する義務と考えていることを果した時、人は平和に休む事ができます」

この言葉は、国という枠を超えて地球規模で動いたジョンのことをまさに言ってるのでは、と涙がでてきた。

 何故、ジョンは、ケープまで一人で来たのか?何の公式記録も残っていない。僕はその疑問を想像しながら「テーブルマウンテン」の真下のホテルに戻ってきた。インターネット上で検索し出てきたジョンの機内でのスナップ、ケープ市内を見下ろすように姿を見せる「テーブルマウンテン」を背景に写るジョンとタクシー運転手、そして運転手が撮ったとされる公園のベンチの写真、ヒルトンホテル前での写真を見て、「ああ、丁度40年前ジョンレノンは、本当にケープに来て、あの山をバックに、この空気を吸っていたのか…」と、画面を見ながら胸が熱くなった。

 その時、「そうか、ジョンの最晩年の行動の意味を考えるために、僕はここにジョンから遣わされたのか!お前ケープに行ってこい!と…」

 それで今ジョンが泊まった同じケープのヒルトンホテルにいるのかと、天命の意味を噛み締めた。ジョンがケープで考えたかったこと、探していたこと、やりたかったことがあるはずで、それを突き止めようと決意した。

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2020年2月25日(火)

 ケープタウン中心部の「THE TOWERS」という高層タワーオフィスビル21階にある在南アフリカ共和国日本大使館在ケープタウン領事事務所に挨拶に。今回の人道支援活動の目的を説明し、道中の保護を依頼。領事代理の男性職員から「とにかくこの国に入ったら、この国の流儀に従うしかないですよ。日本と同じ感覚は通用しません。」と少々怖い事例も言われ、情報として、「ヨハネには工場や世界の企業も集まり、JETROがあるのでそこで相談するといい」と教えてもらう。

 弁護士先生と待ち合わせで市役所に入ると南アフリカの父(タタ)と慕われる英雄ネルソン・マンデラ元大統領夫妻のビル5階分くらいの吹き抜け天井まである巨大なフラッグが掲げてあった。今でも広く国民にいつも目が届くところにマンデラ元大統領の優しい顔がある。壁には、マンデラの名言と、世界で黒人の自由のために活動した人物を称える掲示があり、オバマ夫妻の顔もマンデラ元大統領と共にあった。

 マンデラの名言は胸に染みるので、文字にしてみた。

WHAT TO GIVE(何を与えるか)- THE BEST THING TO GIVE(与えるのに最適なもの)

  To your enemy(あなたの敵に)- forgiveness(許し)
  To your opponent(対戦相手に) – tolerance(寛容)
  To a friend(友達に)- your heart(あなたの心)
  To your child(あなたのに子供に)- good example(良い例)
  To a father(父親に)- deference(服従)
  To your mother(母親に)- conduct that will make her proud of you(誇りに思う行動)   
  To yourself(あなた自身に)- respect(尊敬)
  To all men(すべての男性へ)- charity(慈愛)

 ケープでの最後の夜は、弁護士先生とヨットハーバーのレストランに。波止場に着くと、大陸の果てに来たような感覚。世界の国から来る商人達を歓迎するかのように、原住民の装束でアフリカンダンスの踊りと現地語の歌が太鼓のリズムに合わせ響き渡る。リズム感がすごい!身体中の筋肉がビートで小刻みに震えている感じ。

 レストランに入り、ケープ名物の赤ワインで乾杯!温暖な地中海性気候と適度な降雨に恵まれた地元特産のケープワインは、普段日本で飲み慣れているイタリアやフランスのものと違い格別だ。すると、また、外で踊っていた一団が店内にもやって来てパフォーマンスを始め、テーブルごとに回ってきて記念品やCDを販売している。若い男女10人くらいのグループで一生懸命なので思わず応援したくなり1枚購入。

 食事をしながら、弁護士先生から南アフリカの歴史やマンデラ元大統領の話を聞く。ここは、もともと16世紀以降オランダ領だったが、ヨハネスブルグで金が発見されてから中心がケープからヨハネに移動し、18世紀フランス革命の余波でイギリス艦隊が入り1815年イギリス領に。1910年連邦制がしかれ、1961年独立し、新興経済発展国「BRICs5ヶ国」(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)として活動しており、日本の海運会社の基地もあり先生はこちらに滞在しているとのこと。

 目の前の海が「テーブル湾」で、ちょうど右側に頂上が平らな「テーブルマウンテン」があり、夕日が美しく山に沈み、波一つない鏡のような水面にオレンジの姿を映す。何という美しいこのような自然美を創造主は大陸の最南端の地に与えたのか、そして、波止場にヨットやクルーザーがずらり並ぶという別世界の風景。この湾に浮かぶ「ロベン島(Robben Island)」に刑務所があるそうで、マンデラ元大統領は、1964年から1990年までの27年間ここに収監されていた。ということは、やはり1980年ジョンレノンがケープに来た時、マンデラさんに島まで面会に行った可能性はあると。あくまで推測だが。残念ながら今回は時間がないが、次回、再びケークタウンにじっくり取材に来たいと思う。時差ボケで睡魔が襲い、翌朝早い便でキンバリーに行くことから食事と数杯のワインだけで店を出た。

 その夜、ベッドの中からテーブルマウンテンを見ながら、時差ボケもあってなかなか寝れず、ジョンレノンが最晩年の夏、ケープを訪れたネット上の英語の記事を片っ端から読んでいた。すると不思議な夢に引き摺り込まれ、いつの間にかジョンとマンデラが話している場に遭遇していた…(現実か夢か分からないほどリアルで、飛び起きてしまう)

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2020年2月26日(水)

 朝6時00分発キンバリー(Kimberley)行きのサウスアフリカ航空SA8611便に乗るため、まだ暗い早朝4時に起床し、空港に。ケープタウンから、ダイヤモンドの採掘で世界的な町キンバリーに、マスクの取引先調査、商談のため弁護士先生と飛び乗る。

 機中で下界を見ると、丁度、無限大に広がるかのようなアフリカの大地からダイヤモンドのような朝陽が上った。そして、驚くような不思議な光景が。これが、アフリカで日常的に行われているという野焼きなのか、山の森が赤々と燃え広がっている光景が眼下に見える。何のために?肥料を得るためと言われるが、それにより発生する窒素酸化物、一酸化炭素などはPM2.5を上回る発癌性など人体に影響を与え、地球環境を破壊し続けている。初めて見る光景に思わずショックを受ける!

 1時間20分のフライトで、キンバリー空港に。今までの世界各地の空港とは違い、見渡す限りのサバンナの草原の中に突如現れる滑走路に着陸。「おー、これがアフリカだ」と実感。弁護士の方で手配してくれたガイドのピーターが迎えに来てくれた。右も左も分からない中、目的のマスクの会社“M”社のウェブサイトに記載の番地で所在を探してもらう。

 ダイヤモンド採掘で知られるキンバリーは、19世紀後半に沸き起こったダイヤモンドラッシュ発祥の地。ガイドの車で、市内を回りながら、説明を聞く。ダイヤモンド採掘のために人間の手によって掘られた穴“ビッグホール”は世界最大で、面積は17ヘクタール、直径500メートル、円周1.6キロメートル、深さ215メートルもあり、1871年から1914年までここでダイヤモンド採掘が行われていたと。実際に中に入る見学ツアーや博物館もあるというが、今回は観光ではないので、一切必要ないと断った。(次回改めて来た時の楽しみに残しておくことに…)

 しかし、何故にダイヤモンドや金がこの南アフリカに世界の95%も算出したのか、ピーターに聞くと、キンバリーのあたりは大陸の比較的奥地で、かつ、古い地質条件が保たれている世界でも限られた地域だからと。ダイアモンドは単一元素(C)でできた唯一の宝石で(他の宝石はすべて2種類以上の組合せ)で、地球が誕生した46億年前「先カンブリア代」の地球深部にある溶岩のマグマの中にある炭素が、40億年という気の遠くなる年月をかけ、地球全体の造山運動で、高温、高圧の条件下で上部マントル内部のマグマの中から、近くの割れ目を通って地表近くまで急速な勢いで上昇し結晶化して出来る。なので、偶然と奇跡が重ならないと、採掘できる状態にならない。そういう意味では奇跡の場所だそうだ。240トンのキンバーライト(Kimberlite、雲母橄欖岩)からたった0.2カラットしかダイアモンドは見つからない。そこに今あなた方は来ていると。

 世界屈指のダイヤモンドカンパニー「デビアス(De Beers)」の本社前を通り、目的地に到着。しかし、そのビルに入り下から上まで探すが、肝心の“M”社という会社の看板はなく、管理人に聞けば「最近1社出て行った会社はあるが、分からない」と。どういう理由で、どこに行ったのか、皆目分からず。3Mマスクは現状世界中で争奪戦の状況。3M製品に巡り合えるかどうかは、まさにダイアモンドに近い奇跡が必要かもしれないと思いつつ、留守番電話にメッセージを入れ、宿に戻り3Mマスクの売主“M”社からの連絡を待つ事に。まさに”BIG HOLE”から掘り当てるような思いだ。

 そして、やっと相手の売主の”M”から電話が入り、夜8時にホテルのロビーでアポイントを取る。「やった!」と喜んだが、しかし、”M”という男は約束の時間に現れず。そこで、事前に”M”が送ってきたの顔写真付きIDカードをホテルの受付嬢に見せ、「こう言う人知らないか?」と聞くと、「あら、この顔、地元の有名タレントよ!」と。「ええっ!日本から人生かけてアフリカまで来たのに!」と愕然。何とIDもフェイク、住所もフェイクと判明し、これは詐欺情報に違いないと、同行の弁護士と地元警察に被害相談に…

 何と言う顛末が待っていたのか!落胆の思いで一杯に。夢も何もかも終わりか・・・と。日本側と協議し、しかし、もしかしたら、“M”社のウェブサイトでは、本社がヨハネスブルグにあると言うことで、そちらは本物かもしれないと、最後の望みをかけ、明日ヨハネに向かうことに。

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2020年2月27日(木)

 キンバリー空港で、ケープから同行頂いた弁護士先生、ガイドのピーターと別れ、微かな希望を胸に、サウスアフリカ航空SA1108便で単身アフリカ最大の都市ヨハネスブルグ(Johannesburug)に向かう。双発プロペラ機でBIG HOLEを後に、1時間10分で、世界各地から集積する巨大なハブ空港Or Tambo/オーアール・タンボ国際空港(前議長の名前)に降り立つ。

 早速、空港から目的の住所のマスク商社にタクシーで向かう。ヨハネスブルグは標高1753メートルの高原都市で、歴史ある港町ケープタウンとは全く違う都会的雰囲気。現地で感じたのは、行政とビジネスの中心として世界の大企業の事務所、倉庫、工場が集積し、ここがアフリカと思う反面、ヨハネのビル街ではすぐ裏に廻ると、「ここから先は危険です」と運転手から言われ、タクシーが信号で止まるとあちこちから物売りやお金を求めに来る人がいる。マスクを誰も持ってないのか、誰もしてなく、もし窓を開けたり、車を降りたら危険な空気感。白人を殆ど見ないエリアに来ると、もっとひどい状況で、ニュースで見た嘗てアパルトヘイト(人種隔離政策)の渦中にあったようなスラム街の名残が至る所に。

 目的の住所に着くと、そこは、メトロのバスターミナル。ところが、“M”社というマスク商社の看板も、存在も見当たらず、タクシードライバーにいろいろ聞いてもらうが、そういう会社は知らないと。電話をかけても、誰も出ない。ああ、これが、この国の実態なのか・・・と、歯軋りをする。

 日本側にすぐ連絡し、ヨハネスブルグでも目的の“M”社という会社が確認できなかったことを報告。引き続き情報収集を現地と日本側で行うこととし、3Mマスクのバイヤーが日本で複数社待っているので、こうなったらもう、こちらの3M社に電撃的に直接商談に行くことにしよう!

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2020年2月28日(金)

 昨日までの調査で目的が果たせず、やむなく、世界的化学製品企業の3Mサウスアフリカ社をノーアポで乗り込むことにし、ヨハネスブルグ北部のサントン地区にある3M社にタクシーで朝ホテルを出発。こうなったら「突撃あるのみ!」の大和魂で、いざ出陣。厳重そうな守衛のいるゲートに着くと、タクシードライバーが普通に「商談に来ました…」と流暢な英語で説明すると、奇跡的にガードマンの女性から「OK」が出て、出入簿にサインし、敷地内に入れる。

 メイン棟のビルに入り、ロビーの奥の受付カウンターの女性に、「マスク部門の責任者に会いたい」と伝える。名刺を出し、入館登録を済ませ、暫く待つ。担当の女性がやってきて、「マスクの責任者は今スペインの工場に出張に行っている。戻ったら連絡するが、現状半年先まで在庫及び生産は押さえられている」との説明。「これでは今困っている人にマスクが届かない」と言うと、彼女は「あとは代理店に聞いてください」と。お礼を言い、3M社内の見学だけして、何枚か写真を撮り、3Mサウスアフリカ社を出る。さすがに南アフリカに来れば、3M製マスクもあるだろうと思ってきたが、世界中どこも品薄だった。

 3M社から車で本日の宿のあるプレトリア市内に向かい、コーディネイターのK社のクライブ社長とザックの三人で、日本食レストラン「KOI」で会食しながらミーティング。K社は南アフリカ進出の海外企業のサポートをしている会社で、何も知らない僕には頼りになる信頼感のある男だ。

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2020年2月29日(土)

 4年に1度、平和の祭典オリンピックイヤーの特別な日ということで、平和と自由平等の象徴たる「マンデラ像」に。ヨハネスブルグ隣の行政首都プレトリア(Pretoria)市内を見下ろす大統領官邸のある「ユニオン・ビルディング(Union Buildings)」ガーデンに立つ。南アフリカは、日本と違い、三権分立の各機能が3つの都市に分散している。行政府のあるここプレトリア、立法府のあるケープタウン、そして司法府のあるブルームフォンテン(Bloemfontein)とに。

 ネルソン・マンデラは、自由と民主主義を獲得するために闘い、27年間投獄の後、1994年初の黒人の大統領になり、ノーベル平和賞を受賞した。ここには、9メートルもある像があり、大統領官邸を背に、今も両手を大きくひろげ、訪れる人に優しく微笑みながら語りかけているようだった。マンデラの残した名言を検索。

「奴隷制やアパルトヘイト(Apartheid)と同様に、貧困は自然のものではなく、人間から発生したものだ。よって貧困は人類の手で克服し、根絶できるのだ。」
“Like Slavery and Apartheid, poverty is not natural. It is man-made and it can be overcome and eradicated by the actions of human beings.”

という言葉がある。そして、

「何事も成功するまでは不可能に思えるものである。」
“It always seems impossible until it’s done.”

と・・・それは、まるで僕に語ってくれているような気がした。像を見上げて、僕はその言葉を繰り返した。

「ああ、なんて、生きてる人より優しい顔をしているのか!」

と思わず涙が…。

 ジョンや、マンデラのように、自由と平和のために命を賭してでもやらなくてはいけないことがあると誓った。「地球人として生きよう」と…。この時、不思議なメロディが降りてきた。「ハリクリシュナ、ハリラマ…」という、2年前インドのリシケシ(Rishkesh)に行った時覚えたマントラの言葉とともに…

※この、メロディが4月1日に「We’re Earthians、We’re Earthians…」というエンディング・コーダ部の歌詞になり、8月12日ドバイの知人紹介のスタジオでデモレコーディングが実現。9月に帰国後正式にレコーディングされることになった。

(右端の黄色い服3人はFXトレードの広告マンで、人が広告宣伝媒体で歩く珍しい例)

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2020年3月1日(日)

 日曜の朝、シェラトン前の「ユニオン・ビルディング」ガーデンを散歩し、英気を養う。こちらの朝は早い。6時前には道路が混雑しだす。この時間から、やたら白いワンボックスのワゴン車が多いが、これがヨハネスブルクの乗合タクシー。旅行者、労働者から買い物客まで、気軽に皆、相乗りで足代わりに使っている。乗りたい場所、降りたい場所を指定でき安い。欧米や日本で一般的なセダンのタクシーなら安心できるが、僕は乗り方を知らないのと、ケープで弁護士から注意されていたので、ちょっと怖い気もし、結局乗らなかった。合理的ではあるが、お国柄の違いか。

 テレビで、南アフリカの健康保険大臣が、中国・武漢市から南アフリカへの帰国者の映像、ボリス英国首相入院、日本に入港の客船ダイヤモンドプリンセス号での死者、ワシントンで初の死者発生など世界各地で急拡大するコロナ関連ニュースを伝えていた。

 午後から、コーディネイターのクライブ社長とシェラトンでランチミーティング。週明けに地元の大手医薬品問屋とのアポイントを組んでもらう。ちょうど、南アフリカ北部特有のスコールが振り出し、テントの下で歓談。

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2020年3月2日(月)

 地元の大手問屋のひとつS社を訪問。顔写真入りのワッペンをその場で撮影印刷し、胸に貼って待っっていると社長がわざわざ出迎えてくれて、日本からということで、時間をとっていただく。残念ながら、「医療用の3Mのマスクも一般品も、行先が決まった状態で仕入れているので、あるとしても端数くらいしかないが…」と。当面3Mはここに入ってくる予定はないとのことで、更なる代理店を紹介される。一方、3M1860と同等性能のN95規格のマスクの在庫なら出せると、見積もりを送ってくれることに。最後はお互いの文化など質疑。

 帰りの車窓から、日本企業の看板が目に付く。ヨハネスブルグ近郊の工場・倉庫地帯サントン(Sandton)には、富士通、パナソニックなどの日本企業が集まっていた。僕がまだ30代の頃勤めていた富士通のあの赤いインフィニティ・マークの”Fujitsu”のロゴが懐かしい。当時、富士通宣伝部でCI(コーポレイト・アイデンティティ)の担当をしていて、以前のお堅い「信頼と創造の富士通」から「夢をかたちに」のコーポレイト・メッセージと共に、この柔らかいイメージのロゴマークに変更を担当していた。

洗練されたサントン・シティのショッピングセンターに到着し休憩。そこには「ネルソンマンデラ・スクエア(Nelson Mandela Square)」と呼ばれる広場があり、親しみ易い表情の元大統領の銅像が人々を出迎え、日常的に市民に溶け込んでいた。

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2020年3月3日(火)

 引越し。プレトリア市内中心部のシェラトンから、市内の別のホテルに移動予定でそこに行くと、「今日はこのあたりは断水です。風呂もシャワーも、食事もないけど、その分安くするので、それでいいか?」と聞かれる。さすがに、断り、車中からあちこち電話し、水が出るエリアで探す。水や電気、ガスが当たり前の時代、今でも、水道などのインフラがない地域もアフリカには多い中、いかに水が大事か、思い知る。 

 そして、何軒目かで断水の無い郊外の高台の元どこかの国の大使公邸だったという部屋数も9部屋しかない家族経営のペンション「モント・ドール(Mont d’or)」にようやく辿り着く。「略して、モンドか?」と喜ぶ。フランス語で「金山」という意味の南アフリカらしい名前だ。フランソワさんというオーナー夫婦の経営で、奥様は現職の学校の先生でご主人がホテルマンというご夫婦で、まるで「ジョンとヨーコ」じゃないが、男性が主夫の役割を果たしている。

 ご主人から「ところで、あなたは何の目的で日本からこちらに来てるのか?」と聞くので、「マスクの商談で来ています」と言うと、「それなら、うちの息子の同級生がマスクなどを扱っている商社の役員だよ。一度会うかい?」と。それで、すぐ連絡をとってくれて明日面談することに。幸福の女神が現れる!

 ロビー横にはお子様が弾いていたというアップライトピアノがあり、ちょっと弾かせて頂いた。先日、プレトリアに来てマンデラさんの像の下で閃いたメロディを確認するようにポロポロ引いていたら、「ユニオン・ビルディング」ガーデンで見たマンデラさんのあの大きな像の皆を包み込むような優しい顔立ちと目が忘れられず、自由と平和を祈るようなメロディで、1曲にまとまった。

 大型ホテルとは違うアットホームの魅力がある。落ち着いて、自宅の書斎のような感覚で仕事が捗る。何しろ連日、日本やアメリカと24時間、時間なしで朝まで起きて、午前中寝て午後からまた打ち合わせの繰り返しなので、食事も何もかもついていて落ち着けるところが一番だ。夕食はメニューが少なくお任せだが、こちらの家庭料理が楽しめた。

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2020年3月4日(火)

 朝食後、携帯電話でドライバーのザックと、ネットで3Mの在庫情報を出している会社に片っぱしから電話し、3Mの在庫を当たる。どこも「うちにはもうない」「一箱ならある」「うちも探している、やりとりしよう…」とかで、そのまた先の「販売店に聞いてくれ」、「スコットランドにはまだある…」とか、現実の壁にぶち当たる。日本側に報告し、地元のコーディネイターのクライブ社長と協議し、方針を変え、3M製品は一旦断念し、一般向けのサージカルマスクの方で仕入れに動くことにした。

 午後から、昨日チェックインした後、オーナーのフランソワさんからマスク関係の人を紹介してもらう幸運に恵まれ、南アフリカで最大手の医薬品関係の商社の役員と面談。やってきたのは、若手のイケメン役員と部下。駐車場で握手をし、ハグで出迎え、ホテル内の庭が見渡せるミーティングルームでホワイトボードに僕が取引の流れを書いて説明。

 商談の後は、オーナー交えて息子さんの話など和やかなムードで、僕が日本から持ってきた日本茶のティーバックで緑茶を入れて、日本の話で花が咲く。同じ人間同士心が通じ合うことは嬉しい。最後に何か歌ってくれと言われ、僕が1曲♪『シンプルライフ』というオリジナル曲を英語で披露。「なかなかいいね!」と言われる。早くコロナ禍の世界に広めたいと思う…。その為にも、今回の商談をまとめたいと願う。音楽活動再開のためにも、そして日本で待つ母の為にも・・・

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2020年3月5日(水)

 昨日あちこち電話した中で、ドライバーのザックと市内のメディカル業者向けの卸商の倉庫兼ストアに。すると、なんと、入り口に目的の3Mのロゴ入りのマスクの段ボールが山積みに。期待を膨らませ商談室のデスクに、しかし希望の商品は既に予約で売り切れで、当分入らない。担当者が、今売れるマスクの箱を持ってくるが、それも1枚1.5ドルと高く、一般品なら0.3ドル程度でないと。一般品も、結構末端価格並みに高く、残念至極。

 日本側と対策会議を通し、南アフリカで動いても待つのみなので、現地のコーディネイターのクライブ社長と協議する中で、「実際に世界のリアルな商談が集まっているドバイに行けば取引できる」という情報があり、具体的にドバイの現地商社を紹介してもらい、連絡を取り、急遽、明後日UAEドバイに移動することに。

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2020年3月6日(木)

 いよいよ明日、この2週間、住み慣れた南アフリカの高原首都プレトリアともお別れ。北半球と昼夜逆転の生活で、今日も朝日が上るまで南半球の夏の星座を見ながら起きているのが日常だったので、見納めに朝焼けの様子を写真に。空気が澄んでいるのと、極地に近いということで、空の色味、濃さ、深さが違う感じだ。

 昼間残務整理をし、中庭のプールでひと泳ぎ。南アフリカでの滞在も最後の夜、マスターから別れのディナーをご馳走になる。

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2020年3月7日(土)

 南アフリカでの最後の朝食。ホテルの一般的な朝食と違い、家庭料理なので温もりある野菜料理とフルーツ中心の手作り感が忘れられない味だった。フランソワさんマスターご夫婦に感謝し、6日間過ごした「モント・ドール」とお別れ。コーディネイターのクライブ社長の車でアパルトヘイト(人種隔離政策)の名残の残るエリアに行くことにし、バラック街に向かう。

 今も道路沿いに軒が連なるように家が建ち並んでいて、土埃の中、子供たちがはしゃいでいた。どこの国でも同じように子供の笑顔は、無邪気で共通だ。未来の子供達のために何ができるか、離婚し子供のいない僕にとっては世界中の子供が可愛い息子であり、娘のように思える。

 地元の青年たちとランチをしながら話す機会があり、夢を聞いたら、「日本に行きたい。連れてってくれないか。財団の職員として雇用契約のサインをして欲しい…」と切実な目で言われた。

 クライブ社長から、「南アフリカでは現状すぐにマスクの取引は出来ず、ドバイに私も同行し引き続き手伝いたい…」という言葉があり、空港に行く前、クライブ社長の自宅に立ち寄り、急遽クライブ社長のビザなしでの出国が可能か、旅行代理店にメール、電話で確認。時間がないので直接空港カウンターで交渉することにし、奥様とワンちゃんに別れの挨拶をし、ORタンボ空港に。しかし、南アフリカのパスポート所持者のドバイ入国の空港ビザはその場で降りないと言われ、クライブ社長のドバイ同行は不可に。一人単独で敵陣に乗り込むことに。土産のアフリカのTシャツなどを買い、2週間過ごした南アフリカから、夜22:20分発EK766便でヨハネスブルグからドバイに向かう。

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2020年3月8日(日)その1.機内

 機内で、南アフリカでの様々な出来事を想起しながら、書きかけの小説『ジョンとヨーコの物語』の続きを書く。上中下巻3部作で、以下の構成案だ。

上巻【第1部】『1979年夏・日本〜パパはビートルズだったの?』(1979年7月24日~9月17日)ジョン家族三人の軽井沢の別荘、万平ホテル、東京、鎌倉そして往復の機内などで、それぞれがダディ、マザー、ボーイと呼び合っていた親子、夫婦の語らいをイマジンする小説。ラストでは京都での最後の滞在を通し、日本に答えがあると気付き、日本を愛し、日本に永住を考えたジョンの晩年の思いと未来社会への展望を探っていく。

中巻【第2部】『ダディーズ・ダイアリー〜ライフ・ビギンズ・アット・フォーティ』(1980年8月1日~12月7日)ジョンの最後の日の前夜まで記していた日記。ラストアルバムの制作過程、1980年12月8日に至る日々刻々の動きをイマジンする。夫から妻へ、父親から息子へ、世界の人に何を伝えたかったのか、家族を思う愛情と、ジョンから私たちへの思いとともに、5年振りの音楽活動再開のアーティストとしての心情、果たせなかった思いを解き明かしていく。

下巻【第3部】『ピース・オブ・ラブ〜愛の欠片』(1980年12月8日~2020年12月8日)1979年夏、作者がジョンから授かった秘密のメッセージを探るSFフィクション。それは2016年7月2日のスマホのアラーム設定音と、万平ホテルからの一本の電話から始まる。そして差出人不明の不思議なメールで、「ジョンレノンのミッションを継承して欲しい」という依頼があり、A=444Hzでの『ジョンレノン・クラシックス』の制作をスタートする。その日から3年かけ、ジョンの残した「ピース・オブ・ラブ〜愛の欠片」を探し、ロンドンからシルクロードを通りながら日本に向かう。そして2020年12月8日ジョンの命日、NYでの『ヴァーチャル・レノン蘇る』と題するステージ当日を迎える…

という内容だが、それぞれ関連しているので、いつ書き終えるのか果てしない戦いだ。しかし、これが完成したらすごい作品に必ずなるとの自信がある。だからこそ世界でも類を見ない作品に挑戦し続けている。音楽、舞台や映画など全てのコンテンツの元になる作品だ。命をかけている。あとは、いずれにしても資金次第なので、がんばろう!

 着陸直前まで機内映画で「スティーブジョブス(Steve Jobs)」を見る。ロンドン五輪開会式でジェームスボンドがエリザベス女王をヘリで出迎え、最後にポールマッカートニーが♪『ヘイジュード』を歌う感動の演出をしたダニーボイル監督作品版。

 1984年、あのおもちゃ箱のような一体型パソコン「マッキントッシュ」発表会直前、「ハロー」と言わないトラブルが発生し部下をこき下ろすシーンから始まり、共同創業者の魔法使いウォズニアックに謝辞を述べてほしいと迫られるが断るなど、ジョブズのビジネスマンとしての過去は顧みない未来のみを尊ぶ厳しさを見せた後、元恋人が娘を連れてきて養育費を要求すると「アメリカ男性の28%が父親の可能性がある」と認知をしない。「ウーン?どうなんだろう、この人は、血も涙もないのか」と、人間性を疑うようなシーンに思わず拳を握る。

 監督はそんな構成をしておいて、ところがラストシーンで、娘が「これ“Lisa”って私の名前かしら?」と尋ねると、そうだよって認め、更にリサが幼い時にMacで描いた絵を印刷し持ち歩いていたこともわかる。ジョブズが自分自身子供の頃に父親から愛されなかったためか、自分の娘の愛し方もわからなかった事にやっと気づき、なんと時間を遅らせたことのないジョブスが娘のために発表会の9時を遅らせたという親子の愛を選んだ選択に涙が溢れた。

 別れた女性のひとこと「あなたは経営者より親としての方が素敵よ」って、僕もそう言われたかったと後悔の涙でぼろぼろに。ビジネスと親子の愛の両立は、永遠のテーマとこの映画は教えてくれた。

 降機のアナウンスで気付いたら、僕が一番最後。ボーディングブリッジを渡り、人生の第二幕を決定することになる砂漠の近代都市ドバイに足を下ろした。

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2020年3月8日(日)その2.ドバイ着

 アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ(Dubai)国際空港着。空港のターミナルを出ると、早速マスクを売っている行商人がいて、あまりの暑さで居眠りをしているようで、1箱サンプルで購入しようと近寄り、マスク価格の市場調査の意味もあり、「いくらですか?」聞いたら、「どこから来たの?」と聞かれ、「日本から」と言ったら、「どうぞ、持っていっていいよ」とプレゼントされる。ドバイの人の多くは、日本贔屓と聞いていたが、政府や大企業のトップエリートだけでなく、実際末端の人たちまでそうなのだろうか。

 空港からは、そのまま、メトロと呼ばれる全自動運転の電車に。線路、駅舎、列車、システム全体を日本の三菱重工など三菱グループと近畿車両が担当したというから素晴らしい。逆に日本のJRや地下鉄もそっくりこのままやってほしいくらい、快適で内装も乗り心地もいい。

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2020年3月10日(火)

 南アフリカ滞在中に面談をとっていたドバイの美容系商社のアフメド社長と彼のオフィスで、明日のマスク取引の商談前の事前打ち合わせ。マスク関係を扱う商社の社長は、カイロ出身で地元でエジプト料理レストランや、美容クリニックなど多角的にやっていて、音楽関係も今後一緒にやろうと意気投合した。(エジプトやガーナとかアフリカ出身の人が意外に多い)

 夜、「ブルジュハリファ(Burj Khalifa)」のレストランで会食しながら打ち合わせ。丁度、「ドバイ・ファウンテン(Dubai Fountain)」と呼ばれる噴水のショーが始まり、見ながら会談。23時まで30分刻みで10回のショーで、ラスベガスのホテル「ベラージオ(Bellagio)」の噴水を作ったクリエイター集団“WET Design”が手掛けたもの。本場のラスベガスを上回る150メートルの高さと規模で、音楽と色彩、水の動きの3要素の演出は見事だった。  曲目は、アラブ音楽、クラシックからロックまで多彩。ホイットニーヒューストン(Whitney Houston)♪『オールウェイズ・ラヴ・ユー(I Will Always Love You)』、サラブライトマン♪『タイム・トゥ・セイ・グッバイ(Time to say Goodbye)』やマイケルジャクソン♪『スリラー(Thriller)』など、そして、最後はUAEの国歌で締め括った。

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2020年3月11日(水)

 今回の取引がLC(信用状)またはエスクロー(第三者預託)による取引になるため、専門の信用力のあるドバイの大手金融系商社で、マスクのヨルダンの工場とドバイ〜日本の三国間取引の商談。ビジネスベイにある高層ビルディングのワンフロア。王族関係のオーナーも来て緊張する。

 冒頭、日本が9年前2011年の今日、丁度、今日が日本で大地震があった日で、世界から復興支援の援助をいただいたことに感謝の言葉を述べたあと僕が黙祷をし意を表した。今回のマスクの人道支援プロジェクトの話をし、日本から世界への貢献の趣旨を伝える。
 日本とドバイの友好親善に桜の植樹の提案、文化面での交流の話もし、会長室で、日本から持ってきた「サクラプロジェクトジャパン(SAKURA Project Japan)」のDVDをプレゼントした。ドバイの気候で桜が育つのかどうか・・・

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2020年3月13日(木)

 ドバイの美容系商社アフメド社長の案内で、「ドバイフレーム(Dubai Frame)」の見学に。150mの高さの絵の額縁のような建造物。メキシコの建築家フェルナンド・ドニスがコンペで選ばれ2008年設計、5年かけ建築2018年完成。「ブルジュカリファ」と並びドバイを代表する建築。ドバイには、個性的な設計の建物が多く、日本の画一的なオフィスビル、マンションとは発想が全く違う。建築基準法などの法規の違いなのか、自由度が大きい。地震、洪水などがないこともあるのだろう。

 1階にはドバイの過去からの歴史を辿り、未来のドバイを想像する映像ショーがあり、空飛ぶ車、空中都市などイマジネーションが膨らむ内容で、2018年12月公演したミュージカル「ヌソムルモンド(Nous Sommes Le Monde)」の次回作にも取り入れたいような映像内容だった。

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2020年3月14日(金)

 世界から客船が集まるドバイのラシード(Rashid)港に2018年、永久停泊することになった「クイーンエリザベス2世号(QE2)」に。1967年に建造、英国女王エリザベス2世(Elizabeth II)の立ち会いで進水し、大西洋定期航路を往復し、その後クルーズ船として世界の港を巡り、日本にも来たことがある「海に浮かぶホテル」と言われた豪華客船。早速、この船の船内ガイドツアーに参加。操舵室、船長室、機関室、デッキなどを周り、船首に立つと、まるであの「タイタニック(Titanic)」の主人公になったような気分に。

 夜、甲板でアフメド社長等と一杯飲みながらマスク事業の打ち合わせ。ヨルダンの工場からの見積もりが届き、5時間の時差がある日本のバイヤー側との条件交渉をその場でメールで行う。

 部屋に戻ると、丸い船室の窓から、満月が見え、生まれて初めての洋上泊を体験した。

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2020年3月15日(日)

 イスラム圏では日曜は週の初めの仕事日で、金曜が休みなので、なんとなく週休3日のような錯覚。午後から、ドバイのコーディネーターのモハメド社長の手配で世界規模の運送会社と打ち合わせ。見積もりを依頼する。

 ドバイにはフリーゾーンと呼ばれる税金の優遇されているエリアがあり、空港の周りには世界の貿易関係の会社が集積している。そして、それぞれの町ごとに、医療、メディア、金融、大学、IT、ゴールド(金)、芸術、繊維…など分かれていて、都市計画が機能的にゾーニングされている点が、よく考えられている。

 夜、「クイーンエリザベス2世号」に戻り、船のラウンジに置いてあるピアノがスタンウエイと分かり、音を出さず指だけ動かしてみた。早く音楽をやりたい!マスクで資金を作り、母に親孝行したい、その上で思う存分音楽に投資すること、その為にも頑張ろう!

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2020年3月16日(月)

 「クイーンエリザベス2世号」での最後の朝。プールでひと泳ぎし、朝食後、チェックアウト。QE2のフロント前のパネル展示を見ていると、商社のモハメド社長が出迎えに来てくれる。

 夜、美容系商社のアフメド社長のエジプト料理の店「カイログルメ(CAIRO GOURMET)」で打ち合わせ。エジプト料理は、口に合うか不安だったが、これがなかなかイケる。特に、ピザのような「エイシュ(Eish)」、ヒヨコマメとゴマのペーストでできた「ホンモス(Hummus)」というソースをつけて食べると旨い。というか、もともとイタリアのピザは16世紀以降で、エジプトのピザは期限3000年というから第一王朝メネス王の頃からの歴史があり、物が違う。日本でも、エジプロ料理「カイログルメ」の支店を出し、FC展開をしたいほどだ。きっと、食通には受けるだろう。

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2020年3月20日(金)

 今日は51回目の「ジョンとヨーコ」の結婚記念日。高さ621メートルの摩天楼「ブルジュハリファ」も、新型コロナ対策のロックダウンの影響で、今日で公開を閉鎖という事で、展望台に上がることに。100AED(約2900円)で124階442メートルの「アット・ザ・トップ(AT THE TOP)」まで上れるが、夕方のトワイライト・チケットでドリンク付きの200AEDを支払い、さらに上の148階555メートルの「アット・ザ・トップ・スカイ(AT THE TOP SKY)」という展望台に。世界各国からの来館者でごったがえしているが、マスクは殆どまだつけていない。大丈夫かと心配になる。

 555メートルといえば、3メートルの階高のビルで118階に相当し、日本ではサンシャイン60の約2倍で異次元の世界。51年前の今日、スペインのジブラルタル海峡の街で、密かに結婚式を挙げたジョンとヨーコのことを思いながら、アラビア湾に沈む夕日をじっと見つめる。「ああ50年の月日か。半世紀って言うと、1年が50回。僕が小学6年生の卒業式の頃か…」って思うと、想像できないくらいの時間だけど、過ぎてしまうと昨日のことのよう。二人の願った“愛と平和”を祈った。

 エレベータを降りると、ちょうど出口付近のホールで、新しいドバイのシンボルタワー構想も発表、展示されていた。ふらっと足を止め、見ていると、「明日よければ現地を案内するが、WhatsAppをやってるか?」と気軽に営業を仕掛けてきた。なんでも、ホテルタイプのマンションを販売中とのこと。実に商売熱心だ。どういう営業をするのか、好奇心もあり、連絡先を教える。

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2020年3月21日(土)

 ドバイでも今日から都市封鎖のロックダウンが宣言され、飛行機も飛ばなくなり、長期滞在が確定。船から降りたら、メトロ、バスなどの交通機関も動いていない。学校、レストラン、プールなどの施設が閉鎖され、コンサートなどのイベントも中止。エルトンジョン(Elton John)は、ロンドンの自宅のピアノから世界にメッセージソングをCNNで発信していた。

 丁度、中東地域のテレビ番組「ニュース24」で、今週から「ドバイモール(Dubai Mall)」も閉鎖になると伝えられた。ところが「あれ!」、よく見ると、僕の芸名”MONDO“の文字が一瞬目に入った。「なんだろう、これは?」とよく見ると、「”MONDO Virus”出現!」と書いてあり、思わず「僕のこと?」と、笑っていいのか、怒っていのかわからない…

 夜、“STAY HOME”、“STAY SAFE”、“SOCIAL DISTANCE”の呼びかけが高速道路や街角の電光掲示板で一斉に始まった。驚いたのは、持っていた携帯電話が突然ブルブルと震え、警察からの強制通報で、「翌朝6時までこの週末は、外出禁止、違反者は罰金…」の文字が画面に。

 駅にはバリケードが設置され、郵便局も閉鎖、ホテル内のロビーにあった椅子やテーブル、公園のベンチも撤去され、芝生に人が寝そべるだけとなるなど、何もかもが昨日までと変わった。

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2020年3月30日(月)

 今までのホテルから、自炊もできるアパートメント形式の「Emirates Grand Hotel & Apartments」に移動。理由は、なんと言ってもベランダからドバイの象徴「ブルジュハリファ」が見えるアングルにあること、そして安いこともあるが、もう一つ、このアパートメントにしたのは、なんと1階のカフェの名前が「PICCOLO MONDO CAFÉ」という僕のアーティストネーム“MONDO”そのものだったので、縁起を担いで、もうここしかないと!

 キッチンで調理や備え付けの洗濯機で乾燥まで出来るので、1階のグロサリー(食料品店)で早速、食材や洗剤を買い物。夜、久しぶりに白いご飯とカレー、納豆、味噌汁が無性に欲しくなったので電子レンジで「さとうのご飯」をチンし、お湯でレトルトのカレーを温め、自炊。数十年前の学生時代を思い出した。

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2020年4月1日(水)

 エイプリルフールの朝、起きて、フルーツだけの朝食。ドバイには四季はなく、いつも夏だが、日本は今頃もう春か・・・と桜の開花のニュースとともに、今朝の時点でのアメリカ合衆国の新型コロナ患者数14万人、死者3000人とこの2日で900人近く急増している。ビルゲイツもCNNで警鐘を鳴らし、日本では志村ケンのコロナでの昨日の急死も伝えられ、この先世界がどうなるのか不安だ。

 白衣のドクターがマスクの必要を訴えるCNNの放送を見ながら、目に見えぬ敵と戦うドクターやナースなどの使命感と勇気溢れる医療従事者“WHITE ARMY(白衣の戦士)”への敬意と感謝を表する想いをポエムにしだす。今朝夢の中で、浮かんだポエムを、書きだすと、自然と発信したいという思いになり、今の心境を歌詞にしてみようと思う。

 午後、近くの5つ星ホテルのリッツカールトンに行き、2階ラウンジにピアノを発見。誰もいないので、軽く弾いてみる。すると、丁度、南アフリカのペンションのピアノで2月29日に生まれた「ハリクリシュナ、ハリラーマ…」というメロディラインが再び浮かんだ。そして、口ずさんでいたら、「We’re Earthians, We’re Earthians…」という繰り返しがピッタリはまることに気付き驚く!その時、リッツのラウンジの天井から雷の稲妻のような御光を感じた。オー、エイプリルフール!

 そして、夕方アラビア海に沈みゆく美しい夕日を部屋のベランダから見ていると、太陽がキーワードと感じ、バルコニーにマックブックエアーを持ち出し夕日に想いを込めて「世界はこんなにも美しい 人生はなんてこんなにも素晴らしいのか 母なる太陽からのメッセージだから…」と、歌詞を書いた。そして、タイトルを「We’re Earthians(僕ら地球人)」とし、まさに4月1日のエイプリルフールの日に相応しい嘘のように奇跡の曲の原曲が生まれるという1日となった。そしてこの日の夕焼けは感動的な美しさだった…

♪『We’re Earthians(我ら地球人)』
作詞作曲:縄文土


Spring is not locked   SUN is not locked
春はやってくる 太陽はあがる

SEA is not locked     BIRDS are not locked
海は広がっている 鳥は鳴く

We’re on a planet with same air and water
皆同じ地球の空気と水で生きている

We need to care for you and me
お互いにいたわっていこう

We’re on a planet with same destiny to the end
皆同じ地球と同じ運命のもとでいくしかない

What a Beautiful World     What a Wonderful Life
世界はこんなにも美しい     人生はなんてこんなにも素晴らしいのか

I think it’s only a message from mother nature’s sun
母なる太陽からのメッセージだから

What a Beautiful You      What a Wonderful Love
あなたはなんて美しいのか  愛はなんて素晴らしいのか

I don’ t want anymore, only you, We’re Earthians
もう何もいらない、あなただけ、我ら地球人

………

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2020年4月7日(火)

 今日は年に1度のスーパームーン。確かに今日の月は異様に大きく見える。アラビア湾の方向、僕の宿からは西の方向、つまり、イスラム教の聖地メッカの方向だ。「新月は物事の始まり、満月は物事が叶う」という占星術的な概念から、新月の日には何か物事を始めた方が良いとか、満月の日には何か物事を達成すると言われる。月は「感情や潜在意識」の力が強く働くので、引き寄せ力が高まるとも。

 ジョンとヨーコは、例えば、ニューヨークから日本に行く場合、いつ、どちら経由で行くかなど占星術で決めていたという。月は感情、太陽は目的を表し、月と太陽が重なる新月の日には、何か願い事をすると良いと言われ、満月の日には逆に不要不急の想いを手放すのが良いと。満月の中でも、特に『スーパームーン』の時は、この月の力が強力になるので、これは祈るしかないと正座し、立ち上がって手を合わせ祈りを捧げた。対照的に、下界を見ると、横のフリーウエイは車も閑散とし、車線の上の電光掲示板には「STAY HOME」の文字が。

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2020年4月24日(金)

 ドバイでは労働者が多くいるエリアと、欧米からの富裕層の居住エリア、ビジネス街とが運河「ドバイクリークDubai Creek」の両岸で分かれている感じ。丁度対岸にわたる川船に乗る人たちを見ていたら、現地の人たちは殆どマスクをつけてなく、大都市発展の陰での意識の格差の実態を目の当たりにした。船で対岸にと思ったが、流石にノーマスクの人達と一緒に乗る勇気はなかった。

 昼間人影が少なく、夕方になると急に人が増え、なんだか様子がおかしいなと思ったら、ちょうど今日から、年に1度の1か月の断食期間「ラマダン」に入ったそうだ。夜になると色とりどりの「ファヌース」(色ガラスとブリキのランプ)が町中を照らす。昼間は断食で一切食べることも飲むことも禁止されており、その代わり夜になると皆外に出て深夜まで祭りの夜のように賑やかになる。ところ変われば文化も変わるということだ。

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2020年4月30日(火)

 ドバイの庶民的なエリアに宿を移した。「マルコポーロホテル」に投宿。理由の一つは、その名の通り、探検家マルコポーロの気持ちになりたくて、名前で決めた。椰子の木の歩道沿いの、緑のガラス張りの外観で、まるでホルムズ海峡を渡る客船のようだ。ホテルの入り口には、ラマダンの飾り付けが置いてあり、「あれ、ここはエジプト?」みたいな別世界のアラブの人たちが多い地域にいきなり入ってしまった感じ。

 実際にマルコ・ポーロは、1271年ヴェネツィアから17歳の時、陸路3年間かけ中国の元の都「大都(北京)」に辿り着き、当時のモンゴル皇帝フビライ・ハンに17年間仕えた後、海路マラッカ海峡を通って、ドバイとイランの間のホルムズ海峡を通って、陸路1295年にヴェネツィアに帰った。丁度、今僕がいるドバイのアラビア海の上を通ってマルコの船団は帰国の途についていたのか…。725年前のことを思い浮かべてしまう。伝記にはこう記されている。

 …フビライ皇帝からキリストの聖油を持ってくるよう命を受けたマルコ一行はヴェネツィアから海路2500キロ、エルサレムに入り、キリストの墓に詣でて、聖油を一壺もらい受けた。毎年、キリストの受難日になると灯火がひとりでに消えてしまい、復活の時刻になるとまた燃え出すという奇跡の油である。そして、いよいよ陸路、東方への旅が始まった。それは12000キロメートルもの長く苦しい旅だった。ペルシャで一行は盗賊に襲われ、隊商の人数のほとんどを失う。パミール高原、ゴビ砂漠、そして敦煌へ。わずか一壺の聖油を運ぶため、まるで何かにとりつかれたように彼らはラクダと共に歩み続けた。酷寒と炎暑の中、三年半を費やす旅だった。エルサレムから運ばれた聖油は、当時皇帝にとって何よりも心強い西洋からの味方に見えたことだろう。その後、彼らが開いた道を通して西と東の自由な交易がはじまった。その先鞭をつけたのは、西洋からの小さな贈りもの、一壺の聖油だったのだ…

 マルコは、貿易に従事していたが、ジェノヴァとの戦争が起こり、捕虜となって捕らえられ、獄中でその見聞を口述したのが『世界の記述(東方見聞録)』。この中で、日本に関し、「住民は礼節の正しい優雅な偶像崇拝教徒で、独立国をなし、自己の国王を戴いている。莫大な黄金がこの国にあり、フビライが日本遠征軍を1239年派遣し、暴風雨のために船団が難破したが生きのこった軍勢が上陸してジパング王の軍隊のように見せかけて適地の都を占領したが、その後降伏した…」と書いている。

マルコポーロの名言が部屋の部屋のベッドの壁に書いてあった。僕も、マルコになった気分でドバイから世界に旅だとう!そして、「ドバイ見聞録」を歌にしようと思う。

Travel is my school. I judge from the eye and think by the head.
旅は私の学校だ。自分の目で見、自分の頭で考える。

I have not told half of what I saw.
私が見たものの、半分も話していない。

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2020年5月9日(木)

 ラマダン期間中で外出を控えていたが、美容商社のモハメド社長と久しぶりに面談。ベトナムの工場からマスクのサンプルが届いたということで1箱持参してきてもらった。これと同じものが、買主の南米の大国にも届き、発注出荷になると思うと感無量だ。実際に開封して使用してみたが、青と白の2色あり、青は色合いが普通と違い落ち着いた深めの高級感があり、白はまるで金箔が塗られているかのような輝きと質感がある。その辺のドラッグストアで売られてるものと100倍くらいものが違う。値段も少し高いが、「これが売れないわけがないと!」と確信した。

 陽が落ち夜になると、ラマダン期間中は、逆に人々が一斉に外に出る。コロナ期間中とはいえ、日中禁食した分の反動で、どこのレストランも一杯に。僕も夜な夜な街を歩くと、何と楽器店がたくさん集まっている一角があり、格安の青いギターを発見。今回のマスクの青にちなみ、弦を担ぎ、青のギターを選ぶ。しかし青は展示現品しかないと言われ、値段交渉し30AED(1ディルハム=約29円)=9000円で買って、ホテルに持ち帰る。異国の地で相棒ができ、うれしい。

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2020年5月10日(金)

 日本で使ってたソフトバンクの携帯を国際電話で使い過ぎ、回線が4月いっぱいで使えなくなり、暫くWiFiのLINE電話でやってきたが、仕事上電波で話す必要もあり、マルコポーロホテルから歩いて10分程の巨大ショッピングモール「Al Ghurairドバイ」にある電話会社“du”ショップに。店員さんに「Free SIMカードを使いたい」と言うと、パスポートだけでOKで、音声は緊急時用に月10分、あとはデータは月10メガバイトまで使えて、月約2000円だった。

 そして携帯電話も同じモール内のスーパーマーケット「カルフール」に携帯売り場もあり、夜安売りをしていたのでSIM FreeのHUAWEI(ファーウェイ)の携帯「Y5」を購入。早速、SIMカードを入れて使用してみると、無事開通し、日本に電話したところ、国際電話も出来た。これで、仕事ができる!

 まあ、それにしても「カルフール」と言えば日本にもある食品スーパーと思いき、パソコンから携帯、冷蔵庫まで生活関係一式あり、今丁度断食月の「ラマダン」期間中ということもあり、夜になると外は多くの人が出歩き賑わっていた。

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2020年5月20日(水)

 ドバイは世界貿易のハブであり、世界的な観光地でもあり、今後のさらなる人口の増加も見込まれ、さらに税金が無いことから、世界の投資家にとってドバイの不動産は常に魅力的な投資先ということで、あちこちでビル、美術館、大型ホテルなどの工事ラッシュが続いている。世界からの富裕層が集まることから、海沿いのリゾートホテルもあちこちで建設中で、コロナ期間中にもかかわらず販売も盛んだ。

 今日は、有名な世界最大の人工島「パームジュメイラ」に。上空から見ると、ヤシの木のような形をしている。幹の部分から16本の枝が伸びていて、この枝部分は居住区になっており、居住者以外は立ち入り禁止。世界のセレブが、こぞってプライベートの別荘を購入している。1戸9億円の別荘もあるそうだ。外周部にリゾートホテルやマンションが立ち並び、普段はモノレールで行けるが、コロナで今は全面ストップで車で行く。

 世界的な五つ星の「ロイヤル・アトランティス」ホテルでマスクや不動産の打ち合わせ後、物件紹介で海沿のボードウオークを歩くと数分で目的の政府系デベロッパーのナキール社が総工費1500億円で工事中のリゾートマンションが出現。異形のアーチ形状のデザインが幾何学的で斬新だ。屋上が最近流行のインフィニティプールになっている。どうやって構造を持たしているのか興味深い。日本の富裕層に販売の話を持ち帰る。

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2020年5月21日(木)

 3月からのドバイ生活も2ヶ月以上になり、最初は中心部でのホテル暮らしで、1週間くらいの単位で、いい宿が見つかると移動する生活を続けていたが、長期に渡る出張で気分転換と、いつ帰国できるか分からない情勢で予算節約の必要性から、最近流行のAirbnbというシェアハウス的な宿をネットで案内しているサイトで発見したジュメイラビーチのレジデンス「JBR(Jumeira Beach Residence)」に引越すことにし、予約。一度泊まってみたいと探していたら、丁度イギリスから移住してきている作家夫婦が所有の海が見える一番西側のShams(シャムズ)の7階の部屋が見つかる。1泊1室1700円ほどと格安。

 早速、引越し用に近くの行きつけのスーパーで手頃なスーツケースを購入。マルコポーロホテルのあるディラ地区で最後のひとときを過ごす。

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2020年5月22日(金)

 ジュメイラ・ビーチ・レジデンス”JBR”は外国人に開放された”フリーホールド (Freehold Property)”エリアの1つ。JBRは2007年に完成したマリーナ地区のウォーターフロントにあるドバイマリーナに隣接し、海側に位置しているベージュ色の高層ビル群からなる。

 デベロッパーはドバイの政府系投資グループDubai Holdingsの子会社、ドバイ政府資本100%のドバイ・プロパティーズ(DP)で、2007年に完成した。全長1.7km、220万平米の敷地に、6ブロック(Shams, Amwaj, Rimal, Bahar, Sadaf, Murjan)、合計40棟あり、35棟のマンションと、リッツカールトン、ヒルトン、シェラトン、マリオットなどの高級ホテル5棟が立ち並ぶ。

 全6917戸の物件の目の前は公共ビーチになっており、部屋はアラビア湾向き、マリーナ向き、中庭向きの3タイプ、広さもスタジオタイプからペントハウスまで幅広い。シェイク・ザイード・ロードにも近く、メディア・シティ、インターネット・シティ、DMCCフリーゾーンなどのオフィス地区に近く、ジュベルアリ・フリーゾーン(JAFZA)も通勤圏内。公共交通も、ドバイ中心部と繋がるメトロのDMAC駅、DMCC駅から路面電車トラムが通り、JBR1と2の駅が最寄りにあり便利だ。しかもトラムは3UAEディルハム、90円と安い。

 全ての物件は完売しているが、転売目的で購入した投機家が入居させずに空にしている物件や、バケーションハウスとして期間限定で利用する外国人、マンスリー、シェアハウスとして運用しているオーナーも多い。

 待ち合わせは、近くのJBRのマクドナルドということで、電話したら、英国紳士風の男性が迎えに来てくれた。京都にも来たことのあるFabrizio(ファブリジオ)という日本贔屓のオーナー。部屋からはパーシャルだが海がちょっとだけ見えた。カーテンをひくとまるで一枚の絵のような感じでいい感じ。

 共用のリビングで、お茶を飲みながら身の上話などをした。彼はいわゆる経済小説を書いていると言う。最近も「Marketing World」という本を出版し、アマゾンで買えるので宣伝して欲しいと。僕も小説を書いていて、その為に取材とマスクの取引で来てると言ったら、意気投合し、日本にまた行きたいので、日本でも会おうとハグしてくれた。子供のいない夫婦でお互い自由に仕事をしていて、マンション経営はサイドビジネスで、3部屋を旅行者に安く貸している。例えば、隣はフランス人のライターでもう2ヶ月いると。

 夕方、ビーチを案内してもらい、プライベートエリアのデッキチェアに座り小説を書き、ひと泳ぎ。するとちょうど目の前でギターを持ち込んでいつ女性二人がいて、何とイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」とかを弾いていて、ドバイもロサンゼルスと同じ夕日が沈む西海岸=ウエストコーストと納得。日が落ちるとボードウオークを歩き、対岸の島「ブルーウオーターズ」まで往復、探検して帰宅した。

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2020年5月29日(金)

 今日、僕の音楽人生に1石が投じられた日だった。昼間、運河のハーバーにある大型ショッピングモールでいつものようにマスクの取引のメールのやりとりを日本、アメリカ、韓国とした後、小説を書きに、ジュメイラビーチのカフェに。日も落ちる頃、ビーチでひと泳ぎし、カフェに入って寛いでいると、胸を掻き撫でるような音楽が…。そして窓越しに、赤いトランクスの男と、ジーンズの半ズボンの女性が、密着しダンスを踊っている。通行人も取り巻き見入って、いい感じだ。思わず、iPhoneで動画を撮影。目の前の子連れのお母さんも身を乗り出し、子供も一緒に踊り出した。

 店員に、「なんていう曲ですか?」と聞くと、「ショーンメンデス&カミラカべロの♪セニョリータ」と。素晴らしい!日本にいた時は知らなかった。こういうジャンルがあるとは!アラビックのリズムと音符に表せないような自由自在な歌い回し。僕は「これだ!この音楽だ。こういのをやりたい!」と制作意欲が一気に高まった。宿に戻り、まず、この動画を見ながら、曲のコードをギターでコピーし、体に馴染むまでギターで弾き込む。そして、コード進行に合わせ、メロディラインを考えてみる。こういう時間が好きだ。音楽に全てを忘れ、身を任せ、創造的になれる。ドバイに来て良かったと思う1日だった。

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2020年5月31日(日)

 午後から引越しまでの時間、JBR団地内の床屋に行き、茫茫に伸びた髪の毛と髭をカットし、ヘアカラーしてもらう。このところ面倒くさいのもあるが、髭を剃らず、無精髭を生やし続けてていた。現地では男性は髭を生やすのが普通で、地元の人と溶け込もうと、生まれて初めての体験で、まあ、一度くらいはやってみたかったので…初めて髭カットに挑戦。「どういう風にしたいか?」聞かれたので、「王子の感じで…」と依頼したら、笑いながらOKと。自分でも出来栄えに、思わず笑ってしまう。

 午後から引っ越し。トラムで海沿いを走り、ドバイでクリエイティブな人たちが集まるエリアの「メディアシティ」に。今回もAirbnbで探した。新しい宿は、アーティスト向けのクリエイティブマインドをそそる内装で、猿がいろんな姿勢でぶら下がっていたり、置物など細かなアイテムに思考を凝らしていて建築設計の参考になる。エントランスには僕の芸名”Mondo”の”M”があった。

 午後から引っ越し。トラムで海沿いを走り、ドバイでクリエイティブな人たちが集まるエリアの「メディアシティ」に。今回もAirbnbで探した。新しい宿は、アーティスト向けのクリエイティブマインドをそそる内装で、猿がいろんな姿勢でぶら下がっていたり、置物など細かなアイテムに思考を凝らしていて建築設計の参考になる。エントランスには僕の芸名”Mondo”の”M”があった。

 宿の前には広い公園があり、カラフルな「Media City」の文字とイラストが目を引く看板があり、まるでハリウッドのような感じ。中央の池を囲むように、CNNやMBCなど海外のケーブルテレビ局、ロイター、タイムワーナーなどの新聞社などが軒を並べていて、クリエイティブな雰囲気に満ちている!早速予約していたコンドミニアムに入り小説を書くことにした。

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2020年6月2日(火)

 メディア・シティの湖畔のCNN ビルに。このビルには、CNN、NEW YORK TIMES、LINEなどの世界的な報道関係やインターネット企業が入居している。丁度6階に音楽スタジオ「mind loop」もあり見学。うーん、音楽の虫が目を覚ます。早く、レコーディングをしたい・。
 1階のカフェ「Circle Cafe」で、メールのやり取りと小説執筆。テラスには猫たちがたむろし戯れ合っているのが微笑ましい。ドバイで小説「ジョンとヨーコの物語」をとにかく書き上げよう。コロナで足止めを食らったおかげで、ここに世界の情報が集まる場所に辿り着けた。ドバイには、すべての環境が揃っている。ここから世界にメッセージを発信しよう!

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2020年6月8日(月)

 また、海が恋しくなり、Airbnbでジュメイラビーチの真前のJBRのマンションに戻る。今回もまた「Bahar」(バハール)というブロック。3507号室のこの部屋は全面ガラスで、アラビア海とドバイクリーク運河の両方が見えるのが気持ちいい。創作意欲も湧く!

 3LDKを6LDKに間仕切りしたような作りで、リビング、水回り共用のシェアハウス。ニューヨークやパリの街の写真が壁にかけてある多国籍な雰囲気。老若男女混在、みんな、気ままな生活で、話したい人は話すし、話したくない人は話さないというだけで、それ以上お互い干渉しないので、トラブルもない感じがいい。自由に思い思いに暮らすというのが気が楽だ。長い人は半年いると。ただ、人気で僕の部屋も1週間後はもう埋まってしまっていると。

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2020年6月12日(金)

 JBRのシェアハウスには、今、男女4人でいるが、一人はITエンジニアのギリシャ人の男で、先日まで僕が風邪で熱や咳が続いた時も、嫌な顔ひとつせず牛乳やバナナの差し入れをしてくれ、「コロナだったら?」と普通は避けるのに、親身な奴だ。そういえば僕以外は皆ここの住人は部屋ではマスクはしてない。つまり、ここは1つの屋根の下の家庭だから。もう一人の男は、アフリカ・ナイジェリアから来てる黒人の建築設計のデザイナー。女性は2人ともロングステイの方で昼間仕事に出ていくそうで旅行者でなく住人で、朝ちょっと見かけるだけで、帰宅しても部屋から出てこないので、ほとんど顔を合わせることはないが。シェアする暮らし方も効率的でいい。

 僕はといえば、海や運河を見ながら仕事を、ギターで作曲という時間を満喫できここは最高だ!向いは同じBaharブロックにある国際ホテルの“マリオットホテル”のペントハウスが目の前に見え、屋上テラスカフェバーみたいになっていて、夕方になると海に沈む夕日を見にカップルが現れ、いい感じ。その向こうには海に浮かぶように“Atlantisホテル”がよく見える。

 夜、ナイジェリアからのデザイナーとバルコニーで一緒になり、今日こっそり彼が仕入れてきたアフリカのワイン(ドバイでは酒屋はなく国際ホテル以外はアルコールは禁止)をお裾分けしてもらった。将来は日本で建築のデザインをしたいと話していて、恩返しをしたい。「どこから仕入れたのか」と聞くと、近くの「エミレーツモールの地下に外国人向けの酒屋がある。パスポートがいるけどね…」と教えてくれた。今度行ってみよう。

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2020年6月13日(土)

 JBRのマンションから今日も歩いてマリーナまで散歩しながら日本に電話すると携帯が切れ、ドバイ・マリーナ・モールの大型ショッピングセンター開店と同時に入り、“du”という携帯電波会社で通話料金をデポジット。30分国際電話で話すには30ディルハム=900円必要で、カウンターで支払い、やっと開通。(ちなみに、ドバイはSNS規制があり、LINE、Skype、Zoomなどでの映像・音声チャットはNGで、国際電話しか使えないので。電話局の政策なのだろうか…)

 モールを出てヨットハーバー沿いに歩くと、「Bistro Des Arts(ビストロ・デ・ザール)」というフレンチのカジュアルなレストランを見つけた。http://www.bistrodesarts.ae

 ちょうどランチタイムで覗くと、ここだけは、マリーナで唯一お酒も飲めるとあって、皆昼から飲んでいる。ここは治外法権って感じ。運河を行き来するクルーザーを見られるレストランということもあってか、ここは大賑わい。中に入ると、まるでパリの雰囲気。客もほとんどがというか全員欧米人。地元の人間は誰もいない。ランチタイムは、シェフらしき人が目の前で10数種類の料理を、「これと、これと、これ…」って指差すと、プレートに好きなだけよそってくれる。こういう接客は日本ではないと思った。
 僕も、赤ワインを飲みながら、目を閉じると、2年前訪れたパリを思い出し、しばし瞑想の世界に。ジョンとヨーコがハネムーンで訪れたセーヌの河畔を歩きながら曲を作った、そしてこの店の看板「モンマルトル」の丘の細い路地を歩き広場で絵描きに似顔絵を描いてもらったこととか…。物思いに耽っていたら、向かいのカップルの笑い声で目を開ける。すると、まるで、ジョンとヨーコのような感じで、というかそっくりに見えて、思わず、「あっ!」と声が出た。不思議な瞬間だった。僕は、食事の手を休め、小説を書き始めた。

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2020年6月15日(

 引越しの日。もう何度目の引越しになるだろうか。荷造りをしてると、同じシェアハウスのエジプトから来てるという叔母さんが、お別れに朝食を振る舞ってくれた。ドバイで入院中の息子を見舞いに訪ねてきたという叔母さんで、今日も昼に病院にスープを持っていくのでたくさん作ったからと。冷蔵庫に作り置きしていた煮物やサラダ、パンもご馳走してくれた。皆、同居人に優しく、ホテルにはない人間関係が嬉しい宿だった。

 JBRのシェアハウスを後にし、タクシーに。車で5分ほどの「インターネットシティ駅」近くにある「Signature Hotel」に移動。シグネチュアとは、“署名”の意味もあるが、“とっておきの、特製の、お勧めの…”という意味もある。ホテルロビーに入ると、黒のグランドピアノが置いてあり、誰でも弾いていいそうだ。まさに僕にとって特別なホテル。いいぞ!楽しみだ。部屋に入り、荷物を下ろすと、白い壁に何やら文字が…

「Dream big, Start small. But most of all, Start.」
大きく夢を見て、小さく始めましょう。しかし、何よりも、スタートすること。

 その通りだ!いい言葉だと、何度か口に出していたら、「Dream big…」というフレーズにメロディが降りてきて、コードを当てはめてみる。これはいい感じ。早速iPhoneに忘れないようボイスメモで録音。帰国したらレコーディングしたい。
 一息入れにレストランに入ると、欧米からのビジネス客が多く、国際ホテルの中ということでアルコールOKで、ここでのビジネスの発展成功を祈る。    

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2020年6月19日(金)

朝アメリカから緊急連絡。マスクの契約の手数料約定書に署名がなされたと。念願の初契約!と喜ぶ。しかし実際の売買契約はまだ先で、やることも解決しなければいけないことも多い。何はともあれ、取引がスタートしたのはめでたい。成功するまでやり抜く、それしかない!

午後から気分転換でホテルの周りを散歩。このあたりは、「インターネットシティ」と呼ばれるだけあって、Microsoft、Google、Oracleなど世界的IT系企業のオフィスがずらりと並び、関係のレジデンス、ホテルが混在しているエリアで、歩いている人も欧米系の滞在者が多い。

それにしても6月のドバイはとにかく暑い。日本のような梅雨はなく、連日ピーカンで40度以上の猛烈な暑さ。7月は45度を超えるという。喉を潤しにホテルの向かいのカフェ「COSTA」に入り、ノートPCで作業。周りもリモートワークでPCで仕事をしている人も多く、早速僕も顧客対応のメールや、資料作成そして本業の小説の続きを書き始めた。

夕方、涼しくなってからホテルに戻り、部屋から夕日を見ながらプールでひと泳ぎしてから、夜アメリカ側とのやりとりを始める。すると、今度は、マスクの購入資金が事前に預託先のアメリカの売主指定のエスクロー弁護士に動かないと、在庫証明や試験データなどのエビデンスが売主から提供されないと。これが大問題で、買主の方が事前に資金を移動できるかどうか。それ次第。喜んだのも束の間、結局、三国間貿易は難しいものだ。

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2020年6月20日(土)

 シグネチュアホテルの朝食は毎日充実している。アラブの国では、ひよこ豆のスープ「HUMMS(フムス)」が定番で、これがなかなか日本人の口にも合い、食が進む。後、向かいの床屋で散髪と髭を調整してもらう。髭は、こまめに調整しないとみっともないので、手入れが大変。ただマスクをしてるので見た目は関係ないが。

 今日は世界的に「父の日」ということで、ロビーや通路に「Father’s Day」の張り紙がしてある。ここは欧米系のホテルということだからか…。遠い昔、父が元気な頃、そして、結婚当時「子供から父の日のプレゼントをもらったことがあったなあ…」とか、過ぎ去った日本でのことを走馬灯のように懐かし見ながら、小説「ジョンとヨーコの物語」の親子のシーンを書いたジョンは息子ショーンが生まれて5年間音楽活動を休止し、「主夫」として子育てに専念した。それは自分自身が幼い頃両親のいない孤独な日々を送っていたことから、ショーンには寂しい思いはさせたくないという親心からなのだろう。

 僕ももし、もう一度戻れたら…そういう生き方をしたい。嗚呼、あの頃もっと子供と一緒にいてあげられたら、ジョンのように子供に全ての愛情を捧げたかった。今は、ジョンのメッセージを後世に伝えることが僕にできる最大のことと、天国の父、日本で別れたままの子供達、そして全ての人に小説と音楽で献身したい。

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2020年6月24日(水)

1週間滞在した「シグネチュアホテル」での最後の日。激動の一週間だった。連日朝から夜中まで世界を股にかけてのやりとりで色々あったこの部屋。壁のあのポエムに、ここで繰り広げられたマスクやグローブのビジネスの思い出…よし決まった!と思ったら難問発生、解決そしてまた難航。喜びと挫折の繰り返しに涙し、勇気付けられた白い壁の文字に感謝し、別れを告げ、タクシーに乗りハイウエイで、ドバイ・マリーナ近くのホテル「マリーナビブロス」へ。

 夜久しぶりに、ドバイの商社のモハメド社長と打ち合わせで、「DMCC駅」からメトロに乗り「ビジネスベイ駅」で降り、モハメド社長の経営するエジプト料理の店「CAIRO GOURMET」に。マスクとグローブ、それと音楽事業の件で、ウェブ系のエンジニアの方も来ていて、マスクの取引が成功したらドバイや中東で著名なビッグアーティストでレコーディングし、中東から世界に発信する企画を協議した。終電でホテルに戻り、夢が夢で終わらないよう、今回のマスク取引を成功させるぞと、日記に記す。

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2020年6月25日(木)

 ドバイ滞在中、一度は泊まってみたいと思っていたジュメイラビーチ前の「シェラトン・リゾート・ホテル」に移動。フロントのスタッフもロスやハワイのシェラトンに来たかのような欧米スタッフの対応。チェックインし部屋に入ると、目の前にアラビア海のビーチと、その手前にホテルの円形プールが見える。惚れ惚れする景色に、これを見ながら小説を書こうと、壁向きの机を窓辺に移動し、第3部「愛のかけら」の続きを書こうと思考を巡らせる。ちょっと、泳ぎたくなり、プールに行き、デッキチェアで小説の続きを考えることに。

 ドバイに居ながら、しかもプールで、WiFiの電波を使い、仕事でLINEやメールで日本、アメリカ、韓国、香港、インドネシア、ブラジル、南アフリカなどと世界を相手に瞬時にできるなんて凄い時代になったもんだ。「今、六本木のカフェで…とか、渋谷の事務所で…」と言ったところで、知らない人は誰もそう思うだろう。

 外国資本だけに、「シェラトン」のレストランバーにはアルコールがあった。久しぶりのビアにあずかる。のど越しの感覚も忘れていたかのようで、胃袋に滲み入り、一杯で良いが全身に回る感じだ。宿泊のゲストだけでなく、それを目当てに来ているこちらにいる欧米人もいるようだ。しかし、日本人はここにも誰もいない。中華レストランに行ってもアジア人は皆無。

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2020年6月26日(金)

 朝食をビュッフェスタイルで取った後、シェラトンの並びというかすぐ隣で今建設中のドバイで大手のデベロッパー「アドレス社」で開発販売中のリゾートマンション「ADDRESS RESIDENCE JUMEIRA RESORT & SPA」を向学と市場調査のため内見することに。パリの凱旋門のような中央が空洞のアーチ状の風変わりなデザイン。外観はほぼ完成し、あとは年末の入居開始に向け、外構、植栽、内装などの仕上げをしている。

 しかし、ドバイの建築は、それぞれ個性的で自由だ。日本の建築はどれも正方形の一様のデザインがほとんどだが、ドバイではまるで違う。基本的に地震や台風、大雨、雪などの自然災害がないことから建築基準法や消防法などの規制が日本とは違うのかもしれない。是非、日本の建築家もドバイで自由なデザインを披露し挑戦してもらいたいものだ。(そうだ、軽井沢で計画していたジョンレノンミュージアム、京都で企画したビートルズホテルを設計提案してもらったSさんはどうだろうか…)

 正面エントランスは工事中で、地下の駐車場に車で入り、モデルルームに案内される。1フロアだけ、実際のしつらえになっていて、エレベータで19階で降りると、まず東側がレジデンス棟で家具のない売り切りのタイプ、空洞部分を挟んで西側が家具付きでオーナーが滞在しない時はホテル運用可能なタイプになっている。部屋は大中小の広さ、間取りが選べ、北向きオーシャンビューの部屋、南むきシティビュー、東向きキャナル(運河)ビューなどバリエーションがある。特に海とキャナルの両方のビューが楽しめる角部屋が最高だ。値段は200万ドル、2億円以上だが。一般的な部屋で100万ドル、1億前後。

 セールスマンから、海側の2Bedrooms 110㎡タイプで95万ドル、約1億円という価格で買わないか?と。日本と違い、銀行審査とかなく、普通にこのマンションの、この部屋が欲しいとなれば、サインし契約をするだけ、後の支払いは、5年間、年2回なので10回分割払いの予定を書けばいいとのこと。セールスマンによれば、ホテルとして運用すれば家賃も入るし、値上がりすれば売却OKと。それにしても、頭金は必要だが。洋服でも買うように気軽に買い物をする感じで、部屋を抑えるには、今この場で契約し今あるだけでいいから内金を入れればOKと勧めてくる。非常にイージーで、お国柄の違いとはいえ、驚いた。約束は絶対というイスラムの教えがあり、信用で成り立っている国ということか。なので、買おうと思えば買えてしまう。基本的に値下がりはないので、転売も出来、所得税はないので投資にも好適。外国人が1億円以上の物件を購入すると、VISAをもらえるそうだ。日本で資産のある人はドバイの不動産がお勧めです。以上の話は、地元大手のデベロッパーのモデルールームでセールスマンから言われたこと。厳密には実際は多少違うかもしれないが…

 まあ、いずれにしても、今回取り組んでいるマスクの取引が成功しないことには家を買うとか無理だし、何よりそれより音楽活動への投資の方が僕には優先事項だ。

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2020年6月27日(土)

 シェラトンから近い「ローブ・マリーナ」(Rove Marina Hotel)に移動。13階の海沿の部屋に入り、恒例により、まずデスクを壁面から目の前の運河と海が見える窓面に移動。南アフリカで買ったライオンのぬいぐるみや、写真、お気に入りのカップ、グラス、土産品など移動グッズを並べ、マイルームに仕立てる。そうでもしないと味気ないので。

 ドバイ市内には、この「ローブ」のチェーンがダウンタウンやヘルスシティ、そして今回のジュメイラなど各所にあり、いずれも同じデザイン、コンセプトで、洗濯機、プール、スポーツジム、会議室など設備が充実し、自転車も使え、何より内装がカジュアルでいいセンス。中長期のビジネスの単身族、家族連れ、セミナーとセットでの団体客まで賑わっていた。日本でこのローブのチェーンをFC展開できたらさぞかし流行るのではと思う。

 部屋から、今建設中のアーチ型デザインが目を引くジュメイラビーチの高層リゾートマンション「アドレス・レジデンス」が真正面に見え、その前の運河をアラビア海に出入りするヨットやクルーザーが目の前を通るリゾートの雰囲気で、デスクでの仕事、小説の創作意欲も高まる。先週から始まった3Mマスクの大型商談の書類提出も終わり、もう時期まとまると思うとワクワクする!

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2020年7月1日(水)

 今日、日本へ郵便を送ろうと、郵便局のあるエミレーツモールに電車で向かう。インターネットシティ駅からは2駅で、駅直結のモールなので楽だ。郵便を出し、モール内を歩くと、ガラス越しに不思議な光景が広がった。「ウオー、なんだこりゃ!」「Ski Dubai?スキー場?」なんと、雪が積もっていてスキーウエアを着た人がスノボで滑っている。リフトも動いていて、スキーを履いた人が乗って上がっていってる。ペンギンもいる。

 今日の室外気温が50℃近く、砂漠の国だというのに、朝夕はしばしば湿度100%に達することすらある灼熱の地ドバイで、マイナス1度という低温を保つのにどれほどのコストがかかっているのか、想像を絶する。スキー・スノーボードのコースは全体で幅80メートル、高低差は60メートルあり、最長400メートルに達するほどの長さ。日本の多くの室内スキー場は100メートル未満で、埼玉にある日本最大級の室内スキー場である狭山スキー場は最長300メートルほどだが、幅が30メートルほどとスキー・ドバイの半分以下なことを考えると、スキー・ドバイの規模の大きさがよくわかる。レベルに合わせて5つのコースに分かれているそうだ。

 ドバイ 、恐るべし!確かに、外が暑いだけに涼しくなりたいという意味では逆に嬉しい話だ。このスキー場に面したホテルもあるそうだ。今度泊まってみたい。(今回は旅行ではないので、お楽しみは次回にということで)

 雪が懐かしくスキー場にも入りたかったが、仕事優先で電車に戻る途中、今度はモールのロビーに何やらマンション分譲の案内モニターと模型が目に入る。営業マンが、すかさず、日本人と見るや寄ってきた。ハリウッド映画のマンション見に行きませんか?と、誘ってきて、「何ですか、その映画のマンションって?」と聞くと、シアターのあるマンション、と。ちょっと興味もあり、向学のため急遽午後から、マンションのモデルルームを見学に行くことに。リムジンで送迎してくれるとのこと、さすが地元の王族系大手デベロッパーのDAMAC(ダマック)社。

 車は中心部のビジネスベイに向かう。ブルジュハリファのちょっと裏にある、ハリウッド映画の「PARAMOUNT(パラマウント)」ブランドのホテル&レジデンスに到着。https://www.paramounthotelsdubai.com

デカイ!これは驚いた。六本木ヒルズとミッドタウンが1つになったような規模だ。ホテル棟、レジデンス棟、オフィス棟、商業棟の4棟からなり、間を繋ぐように6階部分の中庭が屋外プールになっている。5階までは映画館やレストラン、ホールになっている。レジデンスの部屋も、オーナーが宿泊しない時は、ホテルとして1泊いくらでホテル運用もでき、投資物件になるとのこと。

 ロビーや、エレベータ、壁には、往年のハンフリーボガードとオードリーヘプバーンの1954年映画『麗しのサブリナ』や、ゲイリークーパーとイングリッドバーグマン主演の1943年映画『誰がために鐘がなる』などのポスターや宣伝写真、廊下には各年に公開された映画の名前がずらりと並ぶ。部屋の内装はあちこち金色、浴槽も、カーテンも、天井照明も。ベッドとリビング一体だが、スイッチで液晶スクリーンになり、映画館の感じになり、お風呂はガラス張りでスケスケだが、スイッチを押すと液晶で目隠しになるなど、アナログとデジタルが融合して、凄いや、これは!「凄いですね!」と営業マンに言うと、「実はロンドンにも同じようなコンセプトのレジデンスを開発してます。」と。こんなマンションが日本にも、パラマウント映画とコラボして出来ないかちょっと企画したくなる。

 もう1件お勧めがあるということで移動。2件目も、同じDAMAC社で今年完成したばかりの、イタリアのファッションブランドFENDI社とのインテリア・コラボレーションという、誰もが憧れるような内装とロケーションの富裕層向けリゾートマンション。部屋からの眺めは、眼下にドバイクリークの運河とヨットハーバー、そして付属の専用プール。こんな部屋にいたら、創作意欲が思い切り湧くのは間違いない。そうだとしたら、逆に安い買い物かもしれないが…

 値段を聞くと、両方とも1部屋180平米くらいで2億円ほど。セールスマンも必死で、本社のショウルームに来ないかと。お茶やジュースを飲みながらお話をと、ドバイの不動産市場の調査も兼ねつい乗せられてついて行く。頭金は、今日いくらか入れていただければ、お好きな部屋を抑えます。契約金は後日でいいですよ、残金は銀行と相談でと、巧みだ。「いくら今払えるか?カードでもいいので…」「上司と相談し、値段も今決めてくれたら10%は安くする…」と言って詰めてくる。

 すると、本当に貫禄ある、高そうなスーツを着た上司がやってきた。「ちょっと待ち合せがあり時間がないので…」と、丁重に「考えておきます」と言って、資料とお土産のノートとボールペンを頂いて、送迎車に乗ってホテルに戻った。凄い営業だなあと感心する。

 今日は1日、僕自身の中の不動産屋の血が燃え滾った。ひょんなことから、郵便局に行ったついでに、振り返って、立ち寄ったことから。しかし、不思議なことがこの世界あるものだ。ちょっと僕が動くと、そこで予想してなかった何かが起きる。これが僕の人生、マイライフなんだ!

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2020年7月2日(木)

 ドバイ・マリーナにあるローブホテルには自転車が置いてあり、自由に使える。今日も午後からノートパソコンを抱えて、運河沿いにモールのカフェに。

 今月も日本への飛行機が欠航との連絡があり、早く帰国したいが、ブラジルとのマスク商談などやり残していること、そして、年末発表予定の小説と舞台公演に向け、原稿書きに残されたドバイでの時間を実り多いものにしよう。今年94歳になる母のためにも最後結果を出すようがんばらなくては!

 毎年、この日、7月2日は僕にとっての記念日が重なる日だ。今、書いている小説「ジョンとヨーコの物語」の第3部・下巻「ピースオブラブ・愛の欠片」で、丁度7月2日の出来事を書いている。物語は、その日の朝、携帯のアラームが枕元で8回続けて鳴ることから始まるという設定だ…

1.“記念日”:1966年(昭和41年)7月2日、小学4年の時、『ビートルズ』の武道館公演をテレビで見てびっくり仰天、飛び上がるようなショックで“感電記念日”。

2.“誕生日”:1957年7月2日、学生時代付き合ってた彼女サコの誕生日

3.“記念日”:1976年7月2日、中学、高校時代同級生で医大生の友人と泳ぎに豊島園のプールに来ていて、長崎出身の女子大生2人と出会った内の一人の愛称がサコで、その日がサコの誕生日で、卒業まで4年間付き合うことになる出会いの日だった。

4.“記念日”:1980年7月2日、そして、最後の日も同じ日だった。彼女の父親が朝、まだ寝てる部屋に突然やってきて、ベッドの中でご対面。医者の家なので医者でなければ用はないとその場で引き裂かれ、終わった。

5.“記念日”:1978年7月2日、3人組のコーラスグループ、トロワを結成し、コロムビア・レコードからガロの二代目として、♪『学生街の喫茶店』のすぎやまこういち・山上路夫コンビのペンによるシングル♪『美しきひと夏』を発売した。

6.“記念日”:2012年7月2日、ロンドン五輪の年、応援ソング♪『君とロンドン』を作って日本文化発信のアイドルユニット、サクラガールズをデビューさせ、ロサンゼルスにいた。「アニメエキスポLA2012」最終日のこの日、全米800万人が視聴する『クランチロールTV』に出演。あの頃が幸福の絶頂、人生の華だった。しかし帰国後プロジェクトが挫折し、離婚。“トリップ&離婚記念日”となった。

7.“リマインダー”:2017年7月2日、「祇園祭」。丁度京都・龍安寺近くの土地売買の案内を兼ね京都に行った帰り、僕はこの小説の取材で、ジョン家族が1979年夏の終わり軽井沢からニューヨークに直接帰国せず京都に数週間いたとの情報が本当か確かめに行った。平安神宮近くのカフェで聞き込み、「“萩まつり”初日の梨木神社に行った」とのジョンとヨーコと直接応対した店主の証言を得て、歴史的発見をする。そして、梨木神社でのヨガの先生との出会いから、インド・リシケシへの道が何と運命的に開けた。その翌日が、「祇園祭」の日だった。

8.“起床”:2019年7月2日朝7時、東京五輪応援ソング♪『ハローニッポン』のプロモーション用記事の取材で、『源氏物語』の舞台、京都・宇治の『三室寺(みむろじ)』に蓮の花を撮影に行く約束をし、前夜セットした起床アラーム。京都で現地カメラマンが待っている。東京駅9時発の『のぞみ』。まずい、起きろ、モンド!

ああ、すごいドラマだな。と我ながら思いつつ、ドバイマリーナに面したモールのカフェでこの部分の小説を書き終える。そして、ジュメイラビーチに通じるボードウオークをいつものように夕方歩く。海に突き出た沖合島「ブルーウオーターズ」まで行って、砂浜を歩き、ひと泳ぎして帰るコース。そこには、世界一の観覧車「ドバイアイ」がある。と言ってもまだ、人が乗るカゴはコロナ禍で外してあるが。コロナが収束したら、全てが廻りだすということか。

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2020年7月7日(火)

 引越し。ローブ・ドバイ・マリーナから、メトロで2駅都心寄りの「インターネットシティ」駅近くの3月中旬に一度宿泊したタイ系の「Dusit D2 Kenz Hotel Dubai」に再度チェックイン。おもてなしは、タイの王族も訪れる一流で内装もサービスも安い割に格別にいい。フロントに来ると、「お久しぶりです。ようこそお待ちしてました」と履歴を見ながら、歓迎してくれた。部屋に入りテレビを見ると、画面にゲストの名前がもう表示されている。

 ここは、最上階にジムと屋上にプールがあり、前回は3月でロックダウン当初クローズだったが、7月から解禁になったそうで、早速体を動かそうとジムとプールに。すると、運命の出会いがあった。なんと、プールサイドで僕の隣にいた人から声をかけられた。僕がノートパソコンで仕事していたら

「あなたは、どうしてプールサイドでパソコンをやってるんですか?」

と不思議がられ、僕が

「日本からマスクのビジネスで来て、この時間、日本やアメリカとメールやLineのやりとりをしてるんです。あと小説や音楽も書いてますが…」

と説明すると、

「是非いろいろお話したいですね」

と。その人はレバノンからドバイに取材で来てい流、テレビ局のキャスターで、同じホテルに宿泊中で、王族や報道の関係で人脈も広いので、金やダイヤモンドの取引相手も紹介できると。意外な展開に驚く。※

 夜、テレビをつけていたら、ビートルズのいやリンゴの曲が聞こえてきた。「オーッ?」と画面を見ると、今日はリンゴスターの80歳の誕生日で、サプライズで動画を発表したようだ。早速YouTubeで見ると、♪『Give More Love』と言う曲、コロナ禍で多くのアーティストがワンフレーズづつ投稿映像風に出演するミュージックビデオ。「もっと愛を与えよう」と、世界にメッセージを歌とともに語っていた。ジョンも生きていれば、今年80歳だったが…想像の世界で。

 今丁度、僕の方でも、コロナの時代に送るメッセージ音楽動画を作ろうと思っていて、4月に作曲した♪『We’re Earthians(我ら地球人)』に、リンゴスターにドラムとメッセージで登場してもらいたいとロスの喜多嶋修さんと案を練っている。実現するには、なんとしてもマスクの取引を成功させなければと、やるしかない!人生をかけて。

※この「Dusit D2 Kenz Hotel Dubai」に宿泊した際の出会いから、8月4日レバノンでの大爆発事故後の♪『Peace On The Land』の曲の誕生とドバイの音楽事務所の紹介、♪『We’re Earthians』のスタジオレコーディングの実現につながったので、この日の出会いが無ければこの2曲とも生まれていない。縁は奇なものだ。このホテルに来るのが1日違っても出会っていないので、巡り合わせは運命的で、大いなる力を感じざるを得ない。感謝!

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2020年7月12日(月)

 昨日、ドバイクリーク運河近くのメトロ駅「バニヤンスクエア」の駅上の便利なフェニシアホテルに引越し。朝食付きで1泊1700円という格安なホテルということで超人気でなかなか取れなかったが、検索サイトで今日から2週間の空きを見つけた。この際多少古くても、安くて朝食付きでロングステイ可能という魅力で決めた。

 部屋に案内されると、足の踏み場もないような狭さで、流石にもう少し広い部屋はないか交渉し、次に案内された部屋は、まあ満足。もちろん、もっとお金を出せばより広い部屋はあるが、1BEDルームで6畳くらいで、僕にはWIFIで仕事ができ、ギターが弾ければそれで十分。とにかく、いつ帰国できる分からない状況なので、できるだけロングステイできる環境を作ることが最重要。

 現在は中国人オーナーとのことで、ホテル内に携帯ショップなどの店舗や、ケンタッキーフライドチキンなどのレストラン、バー、カフェなど10店ほどの飲食店を入れ収益性を高めている。さすが中国人は商売がうまい!今日も、夕方フロントにオーナーが来たが、30代の女性オーナーで、家族で最上階に住んでいると。

 夕食は、1階の「アフリカ」というレストランに。アフリカの煮物など10種類ほどの料理を自由に盛って食べ放題で20ディルハム=600円で味は結構いける。なんとバドワイザービア!と思いき、ノンアルだったが、風味だけ味わう。

 食後の散歩で、ホテル前に出ると、目の前の公園には大勢繰り出していて、仲間との語らいを楽しんでいる。コロナはあまり気にしてない感じで、歩道に露店も出ていて夜は賑やかだ

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2020年7月13日(水)

 部屋からは、イスラム教の居住者が多いエリアということもあり、朝4時台からあちこちでコーランの祈りの放送「アザーン」が始まり、1日合計5回(4時半頃日の出前の礼拝時間・6時頃日の出時間・12時頃昼過ぎの礼拝時間・16時頃日没前の礼拝時間・19時頃日没直後の礼拝時間・20時頃就寝前の礼拝時間)、あちこちの礼拝堂から流れ、部屋の中にいても聞こえ、自ずと身に染み込んでしまう。

 朝陽が丁度上がる頃、朝焼けが美しく、窓を開けたら、ドバイ国際空港に降りていく飛行機と鳩の群れが交錯して見え、自然の鳥と人工物と人間の祈りの声が混じり合い不思議な世界が広がっていた。

 ホテルの部屋にも、イスラム教の偶像崇拝を禁止する教義に従い、メッカの方向に向けて、ドバイ市内からは西の方向に“QIBLA”という文字と矢印の表示板が天井に貼ってあり、真下の床に、長方形の人一人座り頭をつけられるほどの大きさのペルシャ絨毯が敷いてある。僕も部屋の中で、マスクの取引がうまくいき、音楽や小説が世界平和のために発表できますように、そして母と無事帰国出来ますようにと座り祈った。

 朝食は日替わりで、アラビア風パン、ひよこ豆、卵料理、牛乳などしっかり出て、1階のキッチンから部屋まで運んでくれるのが嬉しい。朝食が終わると、清掃が毎日はいる。いつも同じ、アフリカ人のアイザックが7階の担当。ガーナ共和国から出稼ぎでドバイに来ていると。家族は母国にいて仕送りしているが、将来、もしチャンスがあればアメリカか日本に行きたいと。ビザをとってくれないかと真剣に言われる。

 今日は、夕方から、美容系商社のアフメド社長のエジプト料理の店「カイログルメ」で、マスク取引のビジネスミーティング。ブラジル大統領からの1億枚もの大量のオーダーのため、サンプル1箱2500枚を送る件、ベトナムからブラジリアの空港には着いたが、足止めを食らっているため、状況説明と対策会議。

 先日ホテルのプールで知り合ったレバノンから来ているテレビキャスターも合流し、引き合わせ、マスク事業とともにエンタメ事業の打ち合わせを持った。やはり、同じアラビア語圏同士ということで話が弾み、具体的な話はWhatsAppを交換し、直接することになった。

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2020年7月14日(水)

 午後から近くを散歩し、WIFI環境があり、静かで仕事で長居できる手頃なカフェを探していると、ドバイクリーク沿に小洒落たピザ屋があり入ると韓国人の男性店員ばかりで、ドバイで商成功を目指して来て頑張っている。店の壁には、“TO THE MOON & BACK”(すごくすごく○○ている)という英語の諺がかけてあった。韓国人の店主に聞くと、「すごくすごく美味しい、とか、すごくすごく好きです…などいろんな意味を込めています。でも、本当は、すごくすごく故郷に帰りたい。という気持ちです。」とのこと。

 しかし、この店にはWIFIがないというので、角から2軒目の中国茶の店を1軒教えてもらう。「SWEETEA・頭頭の茶」という店で、1階がキッチンとテーブル席、2階はパーティルームになっていて、パンダのぬいぐるみもあり、大人数の対応もできるとのことだが、コロナの影響で2階は使ってないと。というか、先日までドバイ自体のロックダウンで店もクローズしていて、最近再開したばかりと。

 電源も貸してくれて、ノートパソコンで仕事をしていたら、夕方まで長居する。スウィーツの店だが、麺類の軽食もあり、これも結構うまい。仕事も捗り、久しぶりの中華も味わえ大満足!結局午後2時頃から夕方6時頃まで4時間はいた。明日もまた行こう!

https://www.instagram.com/sweeteadubai/

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2020年7月15日(木)

 今日も、中国茶の店「SWEETEA」に。オーナー夫婦とはまだ2回目なのに、同じアジア系ということで、もう常連のような親しみを覚える。上海から移住してきたと言う30代の中国人夫婦で、ファッションもいけてる。黄色がトレードマークなのか、オーナーの帽子も黄色。ロゴもスマイルのイラストが可愛い!これ、FC展開したらイケるのではと思う。

 僕が日本から来たと言うと、「コンニチワ」とフレンドリーに接してくれ、「お薦めは?」と聞くと、パンケーキと中国茶を教えてくれた。注文すると、目の前で焼いてくれ、これはイケる!

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2020年7月16日(金)

 今日も3日続けて、中国茶の店「SWEETEA」に。マスク取引のメールやりとりなどの仕事をしながら、小説を書いている。スウィーツがコンセプトで、今日は苺、パイナプル、バナナとのミックスフルーツティーを注文。これはいける!実際に、4時間いる間にも、デリバリーのネット注文が、4本、5本単位で入ってきて、その度に原動機付き自転車で若い配送スタッフが配達往復していた。彼はアフリカのコンゴからナイジェリアに働きに来ていると。

 店内には中国語の額が掛けられていて、「三杯入口 万虑皆消」の意味を聞くと、「1日3杯の茶を飲めば、全ての心配事は消える」という意味とニッコリ教えてくれる。「得閑飲茶」は?と聞くと、香港映画「I’LL CALL YOU」のタイトルにもなっていて、お茶を飲むと良いことがあるのだそうだ。

  夜、近くの電気街を散歩してると、とにかく携帯ショップがやたら多い。覗いて見て回ると、丁度探してたiPhone5SEがあり、値段交渉。

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2020年7月17日(土)

 中国スウィーツの店「SWEETEA」には唯一チョコレート系がない。それで、隣の中国の食品や惣菜、日用品などを売っている店「中華超市」に入り、眠気覚ましにチョコをチョコっと買う。チョコが1ディルハム30円、小袋に入ったお菓子が2ディルハム60円で、お菓子や果物のバラ売りをしてるのがいい。レジの前にはマスクやフェイスシールドなども掛けてあった。

 とにかく、この一帯は韓国、中国系の人たちも多く住んでいて、その人たち向けの飲食、日用品店が集まっていることが飲み込めた。

 店のレジで、近くに本格的な中華レストランはないか?聞き、紹介してもらい、夜「西湖春天」と言う店に。英語で、そのまま“West Lake Spring Restaurant”。面白いシステムで、20品くらいのおかずとスープを自由に選べて、2皿以上オーダーすると日替わりで2皿目は2ダラハム、つまり60円になる。なので、おかず2皿+ご飯+スープで450円くらいでしっかり食事ができる。このシステムは日本でもイケるかも。ドバイは、なかなか、ビジネストレンドの勉強にもなる。

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2020年7月19日(月)

 夕方、テレビ局のキャスターとの打ち合わせで、アラビア海に近いディラ地区にあるハイアットリージェンシー・ドバイに。日系人が多く滞在している。おそらくドバイでも一番日本人が集まるところと。ホテルの一部がコンドミニアム・マンションになっていて、1泊300ダラハム=約9000円と。まあ、安全・安心・清潔という意味ではいいのだろうが、今の先の見えない状況ではもう暫く節約志向でいこう。

 ハイアットの1階には日本食レストラン「みやこ」が入っていて、普通に焼魚定食、天ぷら定食、とんかつ定食、卵焼きに納豆、味噌汁などがあり、日本酒も、焼酎もある。ここは日本だ!うれしい。レストラン街の横には、アイススケート場もあったが、コロナの中、マスクをして滑っている人はまばらだった。

 ハイアットを出て、宿に戻る途中、クリークの半島の先端あたり、キラキラと店のあかりが華やかで人が集まっている一画が見えた。同行の知人に聞くと、「ここが、ドバイ名物のGold Souk=ゴールドスーク市場…」と。表通りからアーケード式に500メートルほど左右に、金や装飾品の店が並ぶ。一歩足を踏み入れるとそこは、目がくらむほどの眩い世界。今、世界的に金が高騰し、政府によって厳しく管理された金が売買される市場なので、粗悪品、偽物はないとのことで、世界の富裕層だけでなく、観光客も多く訪れるところ。業者が真剣に品定めしている姿が見られた。しかし、日本人も中国人もとにかく観光客は誰も歩いてない。

 金価格は、2011年7月の米国債格下げに伴い1オンス1930ドルまで高騰した後、4年後1000ドル近くまで急落し、そこからまた 5年かけて今回のコロナ問題で、9年前の高値を抜いて史上最高値に迫る勢いだと、店員は「買いだ、買い!」と威勢がいい。日本人と見ると、いつの間にか「案内するよ」と一人の男が日本語で寄り添ってきた。地金投資ならまとめて安くするよと商売熱心。「相場は様子見てからだ」と言って、「また来るよ」と退散した。しかし、ドバイ は世界のお金が集まるところと実感した。

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2020年7月23日(金)

 宿のあるメトロ「バニヤンスクエア駅」から「ユニオン駅」でレッドラインに乗り換え、ドバイモールのある「ブルジュハリファ駅」で降り、アップルストアに行く。3月に来て以来、ロックダウンもあり、足が遠のいていたが、ノートPCの不調の相談のため4ヶ月ぶりにブルジュハリファに来た。

 日本から2台のマックブックエアーを持ってきたが、いずれも2014年製、2013製と古く、SSDディスクの容量がゴミで占拠されクリーンアップしないと治らないらしい。いずれにしても保証対象外なので結構お金もかかると。まあ、マスクのビジネスで資金が入れば何の問題もないので、今は我慢、我慢。書類や写真などのデータはアップルのiCloudサーバーにあれば、後で自動的に戻ってくるとのことで、初期化だけしてもらい、このまま2台とも修理とかせず使い続けることに。

 ところが、帰宅し、再起動しても、肝心のデータが戻ってこない… 「冗談じゃない!」と叫びたくなり、アップルストアに電話するが、「時間はかかるが、降りてくるのでお待ちください」と。明日以降確認しよう。

 この2台のマックブックエアーは、2013年3月公演のミュージカル「ロミオとジュリエットその後」の台本書きとロケ取材用に小型の持ち運び用で1月タイ・バンコクに行く前購入し、その後、マルセイユ、ローマ、グランドキャニオンにも連れていき、2014年ジェニオのアルバム制作後ニューヨークに行くのにもう1台購入し、2017年にはカタール遠征、2018年12月の音楽劇「ダディとマザーの軽井沢物語」の取材ではインドのリシケシにあるビートルズアシュラムとガイジス川でのロケ、イギリスのロンドン・リバプールのビートルズ誕生の軌跡、フランス・パリ、オランダ・アムステルダムのジョンとヨーコのハネムーン先、アメリカ・ニューヨークのジョンの最後の地など世界各地や、日本の北海道から沖縄石垣島まで一緒に旅してきた相棒だ。この2台のマックブックエアー無くして僕の数々の音楽作品は生まれてなく、今の僕はないわけで、大事にしなくてはと改めて思った1日だった。

 夜、帰りにマックに寄ってコーヒーを飲む。オーダーは、大型液晶ディスプレイでタッチ式でオーダーできる。あとは受け取るだけでスムースだ。日本より進化している感じ…。それと、日本と違い、コーヒーをいっぱい頼むと、ドーナツがついてくる。明日の朝食べようと袋に入れ持ち帰る。マックを出ると、行列が出来ていて、何かと思ったらソフトクリームを買う人たちで、夜も暑いドバイの地元の人たちが皆好んで食べている。しかも1ディルハム30円と安い。僕も思わず1個買い、食べ歩き。
 マックの左隣に日本と中国の合弁でドバイにも展開している雑貨店「MINISO(メイソウ=名創優品)」がある。日本語をドバイで見るとは懐かしいものだ。スパイダーマンや MARVELなどのキャラクター商品からスマホケースや化粧品まで夜遅くまで賑わっていた。店の感じは、実際は入ってみて、安いものとブランド品とノーブランド品がミックスしていて、「ダイソーっぽくてユニクロ風、それでいて無印良品」といったイメージ。「100%日本品質・日本品牌(日本ブランド)」を前面に押し出したマーケティングでNY証券取引所に上場までしたが、実態は100%ではないようだが。何れにしても、日本製となるとドバイはじめ海外では信頼感、いいもの、高級感があるということで売れているということだ。マックとメイソウが隣同士にあるというのが出店戦略として面白い。

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2020年8月4日(火)

 今日も1日、日課のように昼から「SWEETEA」で夕方まで作業。夜7時にいつもの中華「西湖春天」で夕食後、8時前に、ホテルに戻る。24時間寝てる間も、出先で、歩いていて日々浮かんでは消えるメロディを録音した音を、部屋に戻りギターで弾いていた。テレビを見ながら…

 すると、夜8時過ぎ、CNNの「ブレーキングニュース」が点滅しながら画面の下のニュースラインを、赤く点滅しながら左に文字が流れた。8月4日現地時間18時頃、ドバイからサウジアラビア、ヨルダン、イスラエルを経て2680キロメートル、時差2時間のレバノンの首都ベイルートで衝撃的な大規模爆発事故が発生。100人以上の命が一瞬にして奪われ、数千人が負傷、20万人もが家を失うという大惨事。

 新型コロナに加えて、こういう事故が世界のどこで起きるか、誰も予想できない今の世の中。僕の関係でも、丁度数日前ベイルートに戻ったばかりの友人の地元テレビ局のキャスターは大丈夫だろうか?WhatsAppで連絡を入れたが繋がらない状況。無事であることを願い、その場で祈りを捧げる。

 友人の安否が心配で眠れない。テレビの画面では昨日まではコロナ一色だったが、今日はレバノン一色だ。悲惨な現場で、救急車や勇敢なレスキュー隊員や使命感溢れるボランティアの人たちが懸命に救出作業を行っている姿、担架を運ぶ姿を見て、涙でいっぱいになった。無事を祈る思いがメロディとなり降りてきて、思わずiPhoneで忘れないように録音した。

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2020年8月5日(木)

 昨夜のレバノン大爆発。まだテレビキャスターの友人の安否は分からない。無事だろうとは思う反面、連絡もないのでもしかして、報道の最前線で忙しいのかもしれない。無事を祈りつつ、今日は部屋でニュースに釘付けで、もしかしたら友人がキャスターかレポーターで出るかもしれないと、食い入るように見ていた。

  報道では、爆発の原因は、ベイルート港の倉庫で保管されていた2,750tの硝酸アンモニウムによって引き起こされたが、これはモザンビークへ輸送する途中、没収されていたものだった。しかし、6年もの間、適切な安全対策がなされず、爆発当日、倉庫の外壁に生じた穴の溶接作業中に爆発が発生したという。レバノンといえば5千年の歴史ある国。しかし、他国に支配され、内戦やイスラエルの侵攻、そして、大爆発。少しでも油断すれば日本もどうなるか分からない。本当に怖い時代になったものだ。

 しかし、爆発事故直線にベイルートに戻った友人から今日も結局連絡はない。もしかしてと不安が過ぎる。不条理とはこういうことなのか。友人は、1風間ほどレバノンで用事を足して、ドバイにまた戻ってくるという予定だったのに。

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2020年8月8日(土)

 今日もいつものように午後から、中国茶とスウイーツの店に。すると何やら慌ただしい。様子が変だ。花が飾られ、見かけぬ人たちが出入りしている。仲良しになったオーナーに聞くと。今日で僕たちは、この店の権利を仲間の中国人に売却し、新しいオーナーになると。それで、引き継ぎの打ち合わせなどをやっている。そして今日が最後、明日から新オーナーでの営業になるが、スタッフもメニューも当面変わらないと。新しいオーナーも来て、明日のオープン前に花束が届き、夜はパーティだそうだ。

 事情を聞くと、やはり、コロナの影響で家賃とか大変らしく、残念そうだった。日本と違い減収の補助金や給付金などもないのか…。僕は、この店のコンセプトはいいと思っていたので、是非、東京やニューヨークで展開してはどうかと、今度打ち合わせしようと。

 僕も、六本木でプロデュースした10階建ビルの1階で「Genio」というイタリアンの店の運営をやっていたが、開店までの立ち上げ、内装やメニューの企画、そして宣伝、集客が何より大変だし、実際オープンしてからの毎日の仕入れや、毎月のスタッフの支払いなど店の切り盛りは大変だったので、よく分かる。あの時は、近くのビルの外資系証券や銀行、IT、通信系の企業も近くにあり、ランチタイムはいつも満員になった。しかし、夜の入りがばらつきがあり、まばらな日もあって、ビラを配ったり、地下鉄の通路にチラシを貼ったり、奮闘したものだ。そんな、飲食業の大変さを思い出した。あの時のスタッフは皆、イタリアで修行してきた連中で、いい奴らだった。あのまま店を続けられたら良かったが、結局途中で、同じように手放してしまうことになった。飲食は、やはり飲食のプロにやってもらった方がいいと…

 ひと月近く毎日のようにこの店に通った居心地の良い店だったが、それは中国茶にフルーツやスィーツを加えた味とメニューもあったが、何と言ってもこのオーナー夫婦の人柄もあってのことで、明日から来る気はあまりしない。思い出深いドバイの中国茶カフェ「SWEETEA」よ、ありがとう!ここで随分小説を書かせてもらって。最後に、写真を撮って王オーナーとお別れした。お元気で!また会いましょう。

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2020年8月9日(日)

 ホテルの周りを散歩に出ると、ホテルの裏側は携帯電話やパソコン、工具や水回り、照明関係の小さい店が軒を連ねている一画で、さながら秋葉原の感じ。マスクも結構店頭に並んでいる。一般的な3層マスク、黒いファッションマスクとか、作業用のマスクなどが並んでいるが、3M

1860マスクはないか探していると、やっと1店見つけ中に入る。「何箱あるか?」と聞くと「10箱しかない」と。「たくさん欲しければ問屋を紹介するが」と言うので、値段を聞くと「ここのは1枚700円、1箱20枚入りで14000円だが、纏まれば1枚550円位までにするが」と。工場からの卸価格が1枚2.2ドル、230円くらいと分かってるので、随分末端価格は高いものだと断る。

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2020年8月12日(水)

 この1週間、連日のレバノン・ベイルートでの惨事のニュース。コロナの惨禍とダブルで見舞われた多くの人たちのことを思うと居た堪れない。何かをしなくてはと思う。僕には寄付するお金も何もないが、祈ることと、発信することしかできない。

 レバノンの人たちに早く平安が訪れますようにとの祈りを念じていると、先日から降りてきていたメロディに、

“Living in cruel world, Peace on this land(この狂いじみた世界に、平和を我らに…”

という歌詞とおたまじゃくしが合わさって。

 早速、いち早く母国に帰国したレバノン出身のテレビキャスターから紹介された知人のドバイのビジネスベイにある音楽事務所のスタジオで、4月にロックダウン下で生まれた曲♪『We’re Earthians』と、今回のレバノンの惨事で生まれた♪『Peace on the Land』の2曲デモ・レコーディングすることに。それにしても、無事であってよかった。

  サビもイントロも、Aメロ、Bメロも頭の中にあるだけの状態でバラバラにギターをまず録音し、その上にボーカルを入れ、ロジックというソフトウエアで、データをコピーしながら繋ぎ合わし、まるで手術をするように1曲を作り上げていく。制作に立ち会ってくれた現地エンジニアはと、プロダクションの社長から、この曲を、アラビア語圏で著名なアーティストOmar Kamal(オマール・カマル)の歌で、アラビア風の楽器とアレンジ演奏をバックに、そしてレバノン現地ロケでミュージックビデオを撮影してはどうかと提案を受ける。レバノンの人たち、そしてコロナに喘ぐ世界に届けたい。それこそが僕のできる唯一且つ最大の貢献だから。

 感染症と災害という、大異変を機に真に世界が生まれ変わり「リスタート」するチャンスになるように祈りを込め、最後はドバイのスタジオで泣きながら歌った。こんな体験は初めてだ!

 タイトルは、ジョンとヨーコがハネムーン先のカナダ・モントリオールのホテルでのベッドインで録音した1969年当時ベトナム戦争への反戦歌♪『Give Peace A Chance!』の邦訳タイトルと思いを一つにし、♪『平和を我らに』としよう!50年前ジョンがモントリオールでの「ベッドイン」で叫んだ思いを、今の時代に蘇らせるんだ!

 出来立てホヤホヤのラフ音源を感動と共に夜中、日本の音楽仲間に送信した。この歌が世界中にいつか広まりますようにと願い…

♪『Peace On The Land(平和を我らに)』
歌・詩曲 縄文土

[1]
遠い遠い 国の問題 身近に迫る 世界の危機
砂漠ドバイで感じたこと SIMフリーな今 みんな同じ

だから Living in cruel world Peace on this land
いっそ Loving the original world Rebirth our land

This is for me This is for you
This is the test for the world

This is for me This is for you
This is the gift for the world

[2]
絶滅危惧種のホモサピエンス 僕ら未来に 何を残す?
アフリカの酷い格差 Street Children に何かしないと!

だからLiving in cruel world Peace on the land
いっそLoving the original world Rebirth our land

This is for me This is for you
This is the test for the world

This is for me This is for you
This is the gift for the world
・・・ 繰り返し

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2020年8月15日(土)

 今日は、終戦記念日。日本ではそう言う言い方が一般的だが、海外に来ると違うようだ。BBCやCNNなど欧米のテレビ局では一様に、「VJ Day」(Victory Over Japan Day)もしくは、「VE Day」(Victory in Europe Day)と報道していた。初めて、このような扱いの放送を海外に出てみてみたが、BBCではチャールズ皇太子夫妻、ウイリアム王子、ボリス・ジョンソン首相らが参列しての式典の模様、そして、日本からの武道館での戦没者慰霊式典を見て、コロナという第三次世界大戦ともいえるような、人類を襲う細菌との戦いそしてレバノンでの災害などに直面し、あらためて平和の尊さ、自然との共生、格差の問題を考えさせられた。傍観者でなく、自分は何をやるのか、もうこの歳になり、残された時間、何に全力をあげるのか、真剣に考えた。

 そうだ、何もいらない、望まない。「大場佳文」として生まれ、まだこうして生かされている証として、ただ音楽と小説を仕上げるのみ。その為に残りの時間を全て費やそう!

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2020年8月22日(土)

 毎日CNNやBBCの天気予報で40度以上が当たり前のドバイ、世界の天気を1時間おきくらいに放送してるが、それを見ると、東南アジア、インドはこの時期モンスーンでずっと雨、中央アフリカも帯状に雨季だが、ドバイのあるアラビア半島には山や丘というものが無いせいか雲が発生しない。なので、まるで雨が降らない。今日も明日も、明後日も晴れで、暑いだけの毎日。日本と違い、変化がないのが寂しい。(しかし、こう言う、世界を一周する天気予報は日本にはないが、是非検討してもらいたいと思う。世界の環境問題を考える意味でも…)

 日本がそろそろ恋しくなってきた。やはり、四季のある日本はいかに潤いや寒暖もあって、つまり新緑や紅葉、白銀の世界と自然の色合い、そしてファッションも楽しめるというのは素晴らしいことだと肌身に実感する。東京は今日33度か。まだドバイ より10度は涼しいし。

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2020年8月22日(土)

 今朝もコックのインド出身のダリーさんが運んでくれるのは嬉しいが、朝食は毎日同じ繰り返し。ご飯と味噌汁に海苔と納豆が恋しい。ドバイもいいけど、なんと言っても、生まれ育った国が一番だ。最近つくづくそう思うが、帰るに帰れない現状からどう脱出するかだ。

 夕方、日本から葉書が届く。と言っても郵便でなく、母がお世話になっている成田の介護施設からメールに添付されて。久々に見る母の笑顔に涙した。早く成果を上げ、帰国し親孝行したい気持ちで一杯になった。毎週のように、帰国便の予約をトライするが、ことごとくフライトキャンセルに。大使館にも相談してみよう。果たして、いつ帰国できるのか…。

 ホテルの部屋からいつも見えるドバイ空港に離発着する機影が、夕陽に重なるのを見て、今日無性に涙が出て、母が呼んでいるような気がし、早期帰国のチャンスを祈った。

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2020年9月2日(金)

 週末の夜、ホテルの近くを散歩していると“NAIF SOUK”と呼ばれる繊維市場の中心に大きな礼拝堂があった。屋上にいつもホテルの部屋から聞いていた朝4時台から1日5回放送のある塔もある。人々が入り口や、ホールで思い思いに座り込み頭を地面につけ礼拝をしている。

 キリスト教の協会と違い、キリストの像や十字架のような神や預言者、聖人などの像が置かれたり、描かれたりすることはない。装飾は幾何学模様が主体で、窪みが掘られているだけ。これは、礼拝の方角を示すのが目的だそうだ。男女別に入り口があり、誰でも入れるが、僕はちょっと勇気がいるなと、入るのを躊躇った。

 宗教も違いはあっても、人が自然や祖先を思い、世界の平和を願う気持ちは同じなんだ。ジョンの♪『イマジン』の歌詞の意味をイスラム教の国でも感じた。

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2020年9月4日(日)

 朝から、メトロに乗りドバイ国際空港に行き、ビザの期限、延長の件確認に。すると、もう延長は不可と宣告。ビザの絶対期限が9月11日とUAE政府から通知があり、それを過ぎることは違法滞在になり、逮捕はないとのことだが、出国時に1日いくらの罰金になるという。そして、もう、今後ドバイに来ることも難しくなると。

 それで、ネットではダメなので、エミレーツ航空のカウンターでキャンセル待ちを申請。すると、8日発のエミレーツ直行便でついに、日本への航空券のキャンセルにありつけた。減便と人数の搭乗制限をしていたようだ。7ヶ月ぶりの日本にやっと帰れることに。ここ数日、帰国の飛行機の情報を見つける予約したが、その度にフライトキャンセルになり、まさにラストチャンスだった。

 ドバイでの生活もあと数日。記念に、初めて運河を走る遊覧船に乗る。夕食・ドリンク(ノンアルコール)・ショー付きで3000円。食後ダンサーが、約10分程度ずっと曲に合わせて、グルグルひたすら回転する曲芸をやっていて、よく目が回らないものだと感心する。ドバイでは観光もしなかったので、本当は砂漠ツアーとかいろいろ見るところもあったが、次回のお楽しみということで、仕事と創作に専念した半年だった。気がつくと、あっという間でもあり、来る日も来る日も朝4時台のコーランの放送から始まる同じ時間の繰り返しでもあったが、無事で何よりということで、あと数日でいろいろまとめをしよう。

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2020年9月6日(日)

 ドバイで最後になる商談に臨む。3Mマスクの売買情報があるという、医療系商社の社長夫妻と打ち合わせで、ドバイの砂漠の中のビジネスエリア「フェスティバル・シティ」にある「ハードロックカフェ」に。ロンドン発祥のライブハウスとバー、ショップを併設した複合店舗で世界各地にあるが、まさかドバイにもあるとは。ビートルズやストーンズ、エルトンジョンなど主に英国系の著名アーティストが使用したギターなどの楽器、ステージ衣装、写真などが飾られ、ロゴ入りTシャツや帽子などロックファッションとグッズのある「ロックマインド」がコンセプトのカフェ。場所によってはホテルも併設されていて、2013年に僕も行ったタイのパタヤビーチにある「ハードロックホテル」は、世界でも珍しい、フロントロビーからレストランや各フロアのエレベータホール、客室に至るまでビートルズのアビーロードなどのアルバム、各メンバーのイラストで溢れていた。ドバイのこの店も、吹き抜けの大きなステージ空間があり、アリーナ席だけで200席ほど2階席も含めれば300席はある感じ。ただし、コロナの影響でイベントはお休み中だった。今度、ここで僕らのステージをやりたい… その為にも今回のマスク取引を成功させたい。そんな思いで商談に臨んだ。(ドバイでもマリーナに建設中の101階建ビルにハードロックホテルが入居予定と)

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2020年9月7日(月)
 午後から、最後のドバイでの1日、ホテル近くのドバイクリーク(運河)を往復する渡し船に乗り、対岸のオールド・スーク市場で土産を買い物に。といってもキャメルのDUBAIのマーク入り帽子とTシャツ、香水など。しかし、オールドスークも人影はまばらで、コロナで観光客がほとんどいなく、日本人は誰一人いない。僕が日本人と見ると、店員は、日本語混じりで喋りかけてくる。客引きの呼び声ばかりがやたら耳に残った。

 夜、僕は定期船に乗り、久々にジュメイラビーチまで、最後の別れに行こうと往復した。思い出のビーチ。毎日のように砂浜を歩き、プールサイドのデッキチェアの背を45度にし、MacBook Airでマスク取引のメールをし、小説を書いた夏の日々。仕事と打ち合わせ、創作活動に充実した毎日だった。

 海上は結構波があり、アラビア海を500年前行き来していたシルクロード船は相当大変だったろうなと想像。この海を通って、駱駝や羊と、香辛料やシルクが交換され、人々や書物や文化が交流していたのか…と。

 遠くに揺れるドバイのシンボル「ブルジュカリファ」の夜景を見ながら、なぜドバイに来ることになったのか、そして半年も滞在し、何を得て、これから何をすべきなのか…。古いものと、新しいもの、アジアとヨーロッパが混在する砂漠の近代都市での半年とこれからの人生を波に揺られながら考えていた。

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2020年9月8日(火)

 7ヶ月に及ぶ今回の南アフリカそしてドバイでの海外滞在、結局マスクの取引は、数々のトライをしたが、いずれもあとちょっとというところで結実せず、人生をかけた出張だったので無念の極みで一杯。しかしマスクの取引というビジネスは成立しなかったが、南アフリカの人たちとの草の根活動を通し、ドバイにたどり着き、そしてブラジルの人たちにヨルダンのマスクを送る話から始まり、最終的にベトナム製の抗菌4層マスクを送れたことは多少なりとも人道支援に役立ったのではないかと思うと、お金に代えられない遣り甲斐があったと思う。今回は観光は一切できなかったが、道中で立ち寄った街の記憶、宿での日々、そして人生を変えるような曲が出来たこと…など大いなる収穫もあった。様々な悔しい思いと引き換えに、貴重な体験を経て得られた数々の思い出が財産になった。

 機内で、そんな思い出に浸りながら、久々のビールの味に、胃袋が驚いたようで、1杯飲んだら、そのまま心地よくアラビアンナイトの世界に眠り込んでいってしまった。

 成田に到着すると、新型コロナの検査が待っていて、前に到着した飛行機の乗客の検査が終わるのを待たなけてはならないというアナウンスがあり、かれこれ2時間ほど機内で待機。やっと降機できたと思ったら、今度は延々と通路でコロナの検査室が空くまでまた待機。そして検査の順番となり、どういう検査かと思ったらPCRでなく唾液検査法で、30分ほどで陰性と判明し安堵。さあ、ここからが人生の再スタート!

To Be Continued —